なぐさめ》かたがたつなぎにやっておいた」
「どうもいろいろ御親切に」と小野さんは畳に近く頭を下げた。
「なに老人はどうせ遊んでいるんだから、御役にさえ立てば喜んで何でもしてくれる。それで、こうしておいたんだがね、――もし談判が調《ととの》えば、車で御嬢さんを呼びにやるからこっちへ寄こしてくれって。――来たら、僕のいる前で、御嬢さんに未来の細君だと君の口から明言してやれ」
「やります。こっちから行っても好いです」
「いや、ここへ呼ぶのはまだほかにも用があるからだ。それが済んだら三人で甲野へ行くんだよ。そうして藤尾さんの前で、もう一遍君が明言するんだ」
小野さんは少しく※[#「やまいだれ+(鼾−自−干)」、第4水準2−81−55]《ひる》んで見えた。宗近君はすぐつける。
「何、僕が君の妻君を藤尾さんに紹介してもいい」
「そう云う必要があるでしょうか」
「君は真面目になるんだろう。――僕の前で奇麗《きれい》に藤尾さんとの関係を絶って見せるがいい。その証拠に小夜子さんを連れて行くのさ」
「連れて行っても好いですが、あんまり面当《つらあて》になるから――なるべくなら穏便《おんびん》にした方が……」
「面当は僕も嫌《きらい》だが、藤尾さんを助けるためだから仕方がない。あんな性格は尋常の手段じゃ直せっこない」
「しかし……」
「君が面目ないと云うのかね。こう云う羽目《はめ》になって、面目ないの、きまりが悪いのと云ってぐずぐずしているようじゃやっぱり上皮《うわかわ》の活動だ。君は今真面目になると云ったばかりじゃないか。真面目と云うのはね、僕に云わせると、つまり実行の二字に帰着するのだ。口だけで真面目になるのは、口だけが真面目になるので、人間が真面目になったんじゃない。君と云う一個の人間が真面目になったと主張するなら、主張するだけの証拠を実地に見せなけりゃ何にもならない。……」
「じゃやりましょう。どんな大勢の中でも構わない、やりましょう」
「宜《よ》ろしい」
「ところで、みんな打ち明けてしまいますが。――実は今日大森へ行く約束があるんです」
「大森へ。誰と」
「その――今の人とです」
「藤尾さんとかね。何時《なんじ》に」
「三時に停車場《ステーション》で出合うはずになっているんですが」
「三時と――今何時か知らん」
ぱちりと宗近君の胴衣《チョッキ》の中ほどで音がした。
「もう二時だ。君はどうせ行くまい」
「廃《よ》すです」
「藤尾さん一人で大森へ行く事は大丈夫ないね。うちやっておいたら帰ってくるだろう。三時過になれば」
「一分でも後《おく》れたら、待ち合す気遣《きづかい》ありません。すぐ帰るでしょう」
「ちょうど好い。――何だか、降って来たな。雨が降っても行く約束かい」
「ええ」
「この雨は――なかなか歇《や》みそうもない。――とにかく手紙で小夜子さんを呼ぼう。阿父《おやじ》が待ち兼《かね》て心配しているに違ない」
春に似合わぬ強い雨が斜めに降る。空の底は計られぬほど深い。深いなかから、とめどもなく千筋《ちすじ》を引いて落ちてくる。火鉢が欲しいくらいの寒《さむさ》である。
手紙は点滴《てんてき》の響の裡《うち》に認《したた》められた。使が幌《ほろ》の色を、打つ雨に揺《うご》かして、一散に去った時、叙述は移る。最前宗近家の門を出た第二の車はすでに孤堂先生の僑居《きょうきょ》に在《あ》って、応分の使命をつくしつつある。
孤堂先生は熱が出て寝た。秘蔵の義董《ぎとう》の幅《ふく》に背《そむ》いて横《よこた》えた額際《ひたいぎわ》を、小夜子が氷嚢《ひょうのう》で冷している。蹲踞《うずくま》る枕元に、泣き腫《はら》した眼を赤くして、氷嚢の括目《くくりめ》に寄る皺《しわ》を勘定しているかと思われる。容易に顔を上げない。宗近の阿父《おとっ》さんは、鉄線模様《てっせんもよう》の臥被《かいまき》を二尺ばかり離れて、どっしりと尻を据《す》えている。厚い膝頭《ひざがしら》が坐布団《ざぶとん》から喰《は》み出して軽く畳を抑えたところは、血が退《ひ》いて肉が落ちた孤堂先生の顔に比べると威風堂々たるものである。
宗近老人の声は相変らず大きい。孤堂先生の声は常よりは高い。対話はこの両人の間に進行しつつある。
「実はそう云うしだいで突然参上致したので、御不快のところをはなはだ恐縮であるが、取り急ぐ事と、どうか悪しからず」
「いや、はなはだ失礼の体《てい》たらくで、私こそ恐縮で。起きて御挨拶《ごあいさつ》を申し上げなければならんのだが……」
「どう致して、そのままの方が御話がしやすくて結句《けっく》私の都合になります。ハハハハ」
「まことに御親切にわざわざ御尋ね下すってありがたい」
「なに、昔なら武士は相見互《あいみたがい》と云うところで。ハハハハ私などもいつ何時《なんどき》御世話にならんとも限らん。しかし久しぶりで東京へ御移《おうつり》ではさぞ御不自由で御困りだろう」
「二十年目になります」
「二十年目、そりゃあそりゃあ。二《ふ》た昔《むかし》ですな。御親類は」
「無いと同然で。久しい間、音信不通《いんしんふつう》にしておったものですからな」
「なるほど。それじゃ、全く小野|氏《うじ》だけが御力ですな。そりゃ、どうも、怪《け》しからん事になったもので」
「馬鹿を見ました」
「いやしかし、どうにか、なりましょう。そう御心配なさらずとも」
「心配は致しません。ただ馬鹿を見ただけで、先刻《さっき》よく娘にも因果《いんが》を含めて申し聞かしておきました」
「しかしせっかくこれまで御丹精になったものを、そう思い切りよく御断念《おあきらめ》になるのも惜《おし》いから、どうかここはひとまず私共に御任せ下さい。忰《せがれ》も出来るだけ骨を折って見たいと申しておりましたから」
「御好意は実に辱《かたじけ》ない。しかし先方で断わる以上は、娘も参りたくもなかろうし、参ると申しても私がやれんような始末で……」
小夜子は氷嚢《ひょうのう》をそっと上げて、額の露を丁寧に手拭《てぬぐい》でふいた。
「冷やすのは少し休《や》めて見よう。――なあ小夜子行かんでも好いな」
小夜子は氷嚢を盆へ載《の》せた。両手を畳の上へ突いて、盆の上へ蔽《お》いかぶせるように首を出す。氷嚢へぽたりぽたりと涙が垂れる。孤堂先生は枕に着けた胡麻塩頭《ごましおあたま》を
「好いな」と云いながら半分ほど後《うしろ》へ捩《ね》じ向けた。ぽたりと氷嚢へ垂れるところが見えた。
「ごもっともで。ごもっともで……」と宗近老人はとりあえず二遍つづけざまに述べる。孤堂先生の首は故《もと》の位地に復した。潤《うる》んだ眼をひからしてじっと老人を見守っている。やがて
「しかしそれがために小野が藤尾さんとか云う婦人と結婚でもしたら、御子息には御気の毒ですな」と云った。
「いや――そりゃ――御心配には及ばんです。忰は貰わん事にしました。多分――いや貰わんです。貰うと云っても私が不承知です。忰を嫌《きら》うような婦人は、忰が貰いたいと申しても私が許しません」
「小夜や、宗近さんの阿父《おとっ》さんも、ああおっしゃる。同《おんな》じ事だろう」
「私は――参らんでも――宜《よろ》しゅうございます」と小夜子が枕の後《うしろ》で切れ切れに云った。雨の音の強いなかでようやく聞き取れる。
「いや、そうなっちゃ困る。私がわざわざ飛んで来た甲斐《かい》がない。小野|氏《うじ》にもだんだん事情のある事だろうから、まあ忰《せがれ》の通知しだいで、どうか、先刻御話を申したように御聞済《おききずみ》を願いたい。――自分で忰の事をかれこれ申すのは異《い》なものだが、忰は事理《わけ》の分った奴で、けっして後で御迷惑になるような取計《とりはからい》は致しますまい。御破談になった方が御為だと思えばその方を御勧めして来るでしょう。――始めて御目に懸《かか》ったのだがどうか私を御信用下さい。――もう何とか云って来る時分だが、あいにくの雨で……」
雨を衝《つ》く一|輛《りょう》の車は輪を鳴らして、格子《こうし》の前で留った。がらりと明《あ》く途端に、ぐちゃりと濡《ぬ》れた草鞋《わらじ》を沓脱《くつぬぎ》へ踏み込んだものがある。――叙述は第三の車の使命に移る。
第三の車が糸子を載《の》せたまま、甲野の門に※[#「車+隣のつくり」、第3水準1−92−48]々《りんりん》の響を送りつつ馳《か》けて来る間に、甲野さんは書斎を片づけ始めた。机の抽出《ひきだし》を一つずつ抜いて、いつとなく溜った往復の書類を裂いては捨て、裂いては捨る。床《ゆか》の上は千切れた半切《はんきれ》で膝の所だけが堆《うずたか》くなった。甲野さんは乱るる反故屑《ほごくず》を踏みつけて立った。今度は抽出《ひきだし》から一枚、二枚と細字《さいじ》に認《したた》めた控を取り出す。中には五六|頁《ページ》纏《まと》めて綴じ込んだのもある。大抵は西洋紙である。また西洋字である。甲野さんは一と目見て、すぐ机の上へ重ねる。中には半行も読まずに置き易《か》えるのもある。しばらくすると、重《かさ》なるものは小一尺の高《たかさ》まで来た。抽出は大抵《たいてい》空《から》になる。甲野さんは上下《うえした》へ手を掛けて、総体を煖炉の傍《そば》まで持って来たが、やがて、無言のまま抛《な》げ込《こ》んだ。重なるものは主人公の手を離るると共に一面に崩《くず》れた。
葡萄《ぶどう》の葉を青銅に鋳《い》た灰皿が洋卓《テエブル》の上にある。灰皿の上に燐寸《マッチ》がある。甲野さんは手を延ばして燐寸の箱を取った。取りながら横に振ると、あたじけない五六本の音がする。今度は机へ帰る。レオパルジの隣にあった黄表紙《きびょうし》の日記を持って煖炉の前まで戻って来た。親指を抑えにして小口を雨のように飛ばして見ると、黒い印気《インキ》と鼠《ねずみ》の鉛筆が、ちら、ちら、ちらと黄色い表紙まで来て留った。何を書いたものやらいっこう要領を得ない。昨夕《ゆうべ》寝る前に書き込んだ、
[#ここから2字下げ]
|入[#レ]道《みちにいる》無言客《むごんのかく》。|出[#レ]家《いえをいず》有髪僧《うはつのそう》。
[#ここで字下げ終わり]
の一聯が、最後の頁の最後の句である事だけを記憶している。甲野さんは思い切って日記を散らばった紙の上へ乗せた。屈《しゃが》んだ。煖炉敷《ハースラッグ》の前でしゅっと云う音がする。乱れた紙は、静なるうちに、惓怠《けったる》い伸《のび》をしながら、下から暖められて来る。きな臭い煙が、紙と紙の隙間《すきま》を這《は》い上《のぼ》って出た。すると紙は下層《したがわ》の方から動き出した。
「うん、まだ書く事があった」
と甲野さんは膝を立てながら、日記を煙のなかから救い出す。紙は茶に変る。ぼうと音がすると煖炉のうちは一面の火になった。
「おや、どうしたの」
戸口に立った母は不審そうに煖炉の中を見詰めている。甲野さんは声に応じて体《たい》を斜めに開く。袂《たもと》の先に火を受けて母と向き合った。
「寒いから部屋を煖《あたた》めます」と云ったなり、上から煖炉の中を見下《みおろ》した。火は薄い水飴《みずあめ》の色に燃える。藍《あい》と紫《むらさき》が折々は思い出したように交って煙突の裏《うち》へ上《のぼ》って行く。
「まあ御あたんなさい」
折から風に誘われた雨が四五筋、窓硝子《まどガラス》に当って砕けた。
「降り出しましたね」
母は返事をせずに三足《みあし》ほど部屋の中に進んで来た。すかすように欽吾を見て、
「寒ければ、石炭を焼《た》かせようか」と云った。
めらめらと燃えた火は、揺《ゆら》ぐ紫の舌の立ち騰《のぼ》る後《あと》から、ぱっと一度に消えた。煖炉の中は真黒である。
「もうたくさんです。もう消えました」
云い終った欽吾は、煖炉に背中を向けた。時に亡父《おやじ》の眼玉が壁の上からぴかりと落ちて来た。雨の音がざあっとする。
「おやおや、手紙が大変散らばって――みんな要《い》らないのかい」
欽吾は床《ゆか》の上を眺《なが》めた。裂
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