っても差支《さしつかえ》ないはずだ。それさえ慎めば取り返しはつく。小夜子の方は浅井の返事しだいで、どうにかしよう」
煙草の煙が、未来の影を朦朧《もうろう》と罩《こ》め尽すまで濃く揺曳《たなびい》た時、宗近君の頑丈《がんじょう》な姿が、すべての想像を払って、現実界にあらわれた。
いつの間《ま》にどう下女が案内をしたか知らなかった。宗近君はぬっと這入《はい》った。
「だいぶ狼籍《ろうぜき》だね」と云いながら紅溜《べにだめ》の膳を廊下へ出す。黒塗の飯櫃《めしびつ》を出す。土瓶《どびん》まで運び出して置いて、
「どうだい」と部屋の真中に腰を卸《おろ》した。
「どうも失敬です」と主人は恐縮の体《てい》で向き直る。折よく下女が来て湯沸《ゆわかし》と共に膳椀を引いて行く。
心を二六時に委《ゆだ》ねて、隻手《せきしゅ》を動かす事をあえてせざるものは、自《おのず》から約束を践《ふ》まねばならぬ運命を有《も》つ。安からぬ胸を秒ごとに重ねて、じりじりと怖《こわ》い所へ行く。突然と横合から飛び出した宗近君は、滑るべく余儀なくせられたる人を、半途《はんと》に遮《さえぎ》った。遮ぎられた人は邪魔に逢《あ》うと同時に、一刻の安きを故《もと》の位地に貪《むさぼ》る事が出来る。
約束は履行すべきものときまっている。しかし履行すべき条件を奪ったものは自分ではない。自分から進んで違約したのと、邪魔が降って来て、守る事が出来なかったのとは心持が違う。約束が剣呑《けんのん》になって来た時、自分に責任がないように、人が履行を妨《さまた》げてくれるのは嬉しい。なぜ行かないと良心に責められたなら、行くつもりの義務心はあったが、宗近君に邪魔をされたから仕方がないと答える。
小野さんはむしろ好意をもって宗近君を迎えた。しかしこの一点の好意は、不幸にして面白からぬ感情のために四方から深く鎖《とざ》されている。
宗近君と藤尾とは遠い縁続である。自分が藤尾を陥《おとし》いれるにしても、藤尾が自分を陥いれるにしても、二人の間に取り返しのつかぬ関係が出来そうな際どい約束を、素知らぬ顔で結んだのみか、今実行にとりかかろうと云う矢先に、突然飛び込まれたのは、迷惑はさて置いて、大いに気が咎《とが》める。無関係のものならそれでも好い。突然飛び込んだものは、人もあろうに、相手の親類である。
ただの親類ならまだしもである。兼《かね》てから藤尾に心のある宗近君である。外国で死んだ人が、これこそ娘の婿ととうから許していた宗近君である。昨日《きのう》まで二人の関係を知らずに、昔の望をそのままに繋《つな》いでいた宗近君である。偸《ぬす》まれた金の行先も知らずに、空金庫《からきんこ》を護《まも》っていた宗近君である。
秘密の雲は、春を射る金鎖の稲妻で、半《なかば》劈《つんざか》れた。眠っていた眼を醒《さま》しかけた金鎖のあとへ、浅井君が行って井上の事でも喋舌《しゃべ》ったら――困る。気の毒とはただ先方へ対して云う言葉である。気が咎《とが》めるとは、その上にこちらから済まぬ事をした場合に用いる。困るとなると、もう一層|上手《うわて》に出て、利害が直接に吾身《わがみ》の上に跳《は》ね返って来る時に使う。小野さんは宗近君の顔を見て大いに困った。
宗近君の来訪に対して歓迎の意を表する一点好意の核は、気の毒の輪[#「気の毒の輪」に傍点]で尻こそばゆく取り巻かれている。その上には気が咎める輪[#「気が咎める輪」に傍点]が気味わるそうに重なっている。一番外には困る輪[#「困る輪」に傍点]が黒墨を流したように際限なく未来に連《つら》なっている。そうして宗近君はこの未来を司《つかさ》どる主人公のように見えた。
「昨日《きのう》は失敬した」と宗近君が云う。小野さんは赤くなって下を向いた。あとから金時計が出るだろうと、心元なく煙草へ火を移す。宗近君はそんな気色《けしき》も見えぬ。
「小野さん、さっき浅井が来てね。その事でわざわざやって来た」とすぱりと云う。
小野さんの神経は一度にびりりと動いた。すこし、してから煙草の煙が陰気にむうっと鼻から出る。
「小野さん、敵《かたき》が来たと思っちゃいけない」
「いえけっして……」と云った時に小野さんはまたぎくりとした。
「僕は当《あて》っ擦《こす》りなどを云って、人の弱点に乗ずるような人間じゃない。この通り頭ができた。そんな暇は薬にしたくってもない。あっても僕のうちの家風に背《そむ》く……」
宗近君の意味は通じた。ただ頭のできた由来が分らなかった。しかし問い返すほどの勇気がないから黙っている。
「そんな卑《いや》しい人間と思われちゃ、急がしいところをわざわざ来た甲斐《かい》がない。君だって教育のある事理《わけ》の分った男だ。僕をそう云う男と見て取ったが最後、僕の云う事は君に対して全然無効になる訳だ」
小野さんはまだ黙っている。
「僕はいくら閑人《ひまじん》だって、君に軽蔑《けいべつ》されようと思って車を飛ばして来やしない。――とにかく浅井の云う通なんだろうね」
「浅井がどう云いましたか」
「小野さん、真面目《まじめ》だよ。いいかね。人間は年《ねん》に一度ぐらい真面目にならなくっちゃならない場合がある。上皮《うわかわ》ばかりで生きていちゃ、相手にする張合《はりあい》がない。また相手にされてもつまるまい。僕は君を相手にするつもりで来たんだよ。好いかね、分ったかい」
「ええ、分りました」と小野さんはおとなしく答えた。
「分ったら君を対等の人間と見て云うがね。君はなんだか始終不安じゃないか。少しも泰然としていないようだが」
「そうかも――知れないです」と小野さんは術《じゅつ》なげながら、正直に白状した。
「そう君が平たく云うと、はなはだ御気の毒だが、全く事実だろう」
「ええ」
「他人《ひと》が不安であろうと、泰然としていなかろうと、上皮《うわかわ》ばかりで生きている軽薄な社会では構った事じゃない。他人《ひと》どころか自分自身が不安でいながら得意がっている連中もたくさんある。僕もその一人《いちにん》かも知れない。知れないどころじゃない、たしかにその一人だろう」
小野さんはこの時始めて積極的に相手を遮《さえ》ぎった。
「あなたは羨《うらやま》しいです。実はあなたのようになれたら結構だと思って、始終考えてるくらいです。そんなところへ行くと僕はつまらない人間に違ないです」
愛嬌《あいきょう》に調子を合せるとは思えない。上皮の文明は破れた。中から本音《ほんね》が出る。悄然《しょうぜん》として誠を帯びた声である。
「小野さん、そこに気がついているのかね」
宗近君の言葉には何だか暖味《あたたかみ》があった。
「いるです」と答えた。しばらくしてまた、
「いるです」と答えた。下を向く。宗近君は顔を前へ出した。相手は下を向いたまま、
「僕の性質は弱いです」と云った。
「どうして」
「生れつきだから仕方がないです」
これも下を向いたまま云う。
宗近君はなおと顔を寄せる。片膝を立てる。膝の上に肱《ひじ》を乗せる。肱で前へ出した顔を支える。そうして云う。
「君は学問も僕より出来る。頭も僕より好い。僕は君を尊敬している。尊敬しているから救いに来た」
「救いに……」と顔を上げた時、宗近君は鼻の先にいた。顔を押しつけるようにして云う。――
「こう云う危《あや》うい時に、生れつきを敲《たた》き直して置かないと、生涯《しょうがい》不安でしまうよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しはつかない。ここだよ、小野さん、真面目《まじめ》になるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。皮《かわ》だけで生きている人間は、土《つち》だけで出来ている人形とそう違わない。真面目がなければだが、あるのに人形になるのはもったいない。真面目になった後《あと》は心持がいいものだよ。君にそう云う経験があるかい」
小野さんは首を垂れた。
「なければ、一つなって見たまえ、今だ。こんな事は生涯に二度とは来ない。この機をはずすと、もう駄目だ。生涯|真面目《まじめ》の味を知らずに死んでしまう。死ぬまでむく犬のようにうろうろして不安ばかりだ。人間は真面目になる機会が重なれば重なるほど出来上ってくる。人間らしい気持がしてくる。――法螺《ほら》じゃない。自分で経験して見ないうちは分らない。僕はこの通り学問もない、勉強もしない、落第もする、ごろごろしている。それでも君より平気だ。うちの妹なんぞは神経が鈍いからだと思っている。なるほど神経も鈍いだろう。――しかしそう無神経なら今日でも、こうやって車で馳《か》けつけやしない。そうじゃないか、小野さん」
宗近君はにこりと笑った。小野さんは笑わなかった。
「僕が君より平気なのは、学問のためでも、勉強のためでも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰が据《すわ》る事はない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が儼存《げんそん》していると云う観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。やっつけなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者《こうしゃ》に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾《いかん》なく世の中へ敲《たた》きつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。実を云うと僕の妹も昨日《きのう》真面目になった。甲野も昨日真面目になった。僕は昨日も、今日も真面目だ。君もこの際一度真面目になれ。人|一人《ひとり》真面目になると当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる。――どうだね、小野さん、僕の云う事は分らないかね」
「いえ、分ったです」
「真面目だよ」
「真面目に分ったです」
「そんなら好い」
「ありがたいです」
「そこでと、――あの浅井と云う男は、まるで人間として通用しない男だから、あれの云う事を一々|真《ま》に受けちゃ大変だが――本来を云うと浅井が来てこれこれだと、あれが僕に話した通《とおり》を君の前で箇条がきにしてでも述べるところだね。そうして、君の云うところと照し合せた上で事実を判断するのが順当かも知れない。いくら頭の悪い僕でもそのくらいな事は知ってる。しかし真面目になると、ならないとは大問題だ。契約があったの、滑《すべ》ったの転《ころ》んだの。嫁があっちゃあ博士になれないの、博士にならなくっちゃ外聞が悪いのって、まるで小供見たような事は、どっちがどっちだって構わないだろう、なあ君」
「ええ構わないです」
「要するに真面目な処置は、どうつければ好いのかね。そこが君のやるところだ。邪魔でなければ相談になろう。奔走しても好い」
悄然《しょうぜん》として項垂《うなだ》れていた小野さんは、この時居ずまいを正《ただ》した。顔を上げて宗近君を真向《まむき》に見る。眸《ひとみ》は例になく確乎《しっか》と坐っていた。
「真面目な処置は、出来るだけ早く、小夜子と結婚するのです。小夜子を捨てては済まんです。孤堂先生にも済まんです。僕が悪かったです。断わったのは全く僕が悪かったです。君に対しても済まんです」
「僕に済まん? まあそりゃ好い、後《あと》で分る事だから」
「全く済まんです。――断わらなければ好かったです。断わらなければ――浅井はもう断わってしまったんでしょうね」
「そりゃ君が頼んだ通り断わったそうだ。しかし井上さんは君自身に来て断われと云うそうだ」
「じゃ、行きます。これから、すぐ行って謝罪《あやま》って来ます」
「だがね、今僕の阿父《おやじ》を井上さんの所へやっておいたから」
「阿父《おとっ》さんを?」
「うん、浅井の話によると、何でも大変怒ってるそうだ。それから御嬢さんはひどく泣いてると云うからね。僕が君のうちへ来て相談をしているうちに、何か事でも起ると困るから慰問《
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