して筒を抜いた。取り出した験温器を日に翳《かざ》して二三度やけに振りながら、
「何だって、そんな余計な事を云うんだ」と度盛《どもり》を透《すか》して見る。先生の精神は半ば験温器にある。浅井君はこの間に元気を回復した。
「実は頼まれたんです」
「頼まれた? 誰に」
「小野に頼まれたんです」
「小野に頼まれた?」
先生は腋《わき》の下へ験温器を持って行く事を忘れた。茫然《ぼうぜん》としている。
「ああ云う男だものだから、自分で先生の所へ来て断わり切れないんです。それで僕に頼んだです」
「ふうん。もっと精《くわ》しく話すがいい」
「二三日|中《じゅう》に是非こちらへ御返事をしなければならないからと云いますから、僕が代理にやって来たんです」
「だから、どう云う理由で断わるんだか、それを精しく話したら好いじゃないか」
襖《ふすま》の蔭で小夜子が洟《はな》をかんだ。つつましき音ではあるが、一重《ひとえ》隔ててすぐ向《むこう》にいる人のそれと受け取れる。鴨居《かもい》に近く聞えたのは、襖越《ふすまごし》に立っているらしい。浅井君の耳にはどんな感じを与えたか知らぬ。
「理由はですな。博士にならなければならないから、どうも結婚なんぞしておられないと云うんです」
「じゃ博士の称号の方が、小夜より大事だと云うんだね」
「そう云う訳でもないでしょうが、博士になって置かんと将来非常な不利益ですからな」
「よし分った。理由はそれぎりかい」
「それに確然たる契約のない事だからと云うんです」
「契約とは法律上有効の契約という意味だな。証文のやりとりの事だね」
「証文でもないですが――その代り長い間御世話になったから、その御礼としては物質的の補助をしたいと云うんです」
「月々金でもくれると云うのかい」
「そうです」
「おい小夜や、ちょっと御出《おいで》。小夜や――小夜や」と声はしだいに高くなる。返事はついにない。
小夜子は襖《ふすま》の蔭に蹲踞《うずくま》ったまま、動かずにいる。先生は仕方なしに浅井君の方へ向き直った。
「君は妻君があるかい」
「ないです。貰いたいが、自分の口が大事ですからな」
「妻君がなければ参考のために聞いて置くがいい。――人の娘は玩具《おもちゃ》じゃないぜ。博士の称号と小夜と引き替にされてたまるものか。考えて見るがいい。いかな貧乏人の娘でも活物《いきもの》だよ。私《わし》から云えば大事な娘だ。人一人殺しても博士になる気かと小野に聞いてくれ。それから、そう云ってくれ。井上孤堂は法律上の契約よりも徳義上の契約を重んずる人間だって。――月々金を貢《みつ》いでやる? 貢いでくれと誰が頼んだ。小野の世話をしたのは、泣きついて来て可愛想《かわいそう》だから、好意ずくでした事だ。何だ物質的の補助をするなんて、失礼千万な。――小夜や、用があるからちょっと出て御出、おいいないのか」
小夜子は襖の蔭で啜《すす》り泣《なき》をしている。先生はしきりに咳《せ》く。浅井君は面喰《めんくら》った。
こう怒られようとは思わなかった。またこう怒られる訳がない。自分の云う事は事理明白である。世間に立って成功するには誰の目にも博士号は大切である。瞹眛《あいまい》な約束をやめてくれと云うのもさほど不義理とは受取れない。世話をして貰いっ放しでは不都合かも知れないが、して貰っただけの事を物質的に返すと云い出せば、喜んでこっちの義務心を満足させべきはずである。それを突然怒り出す。――そこで浅井君は面喰った。
「先生そう怒っちゃ困ります。悪ければまた小野に逢《あ》って話して見ますから」と云った。これは本気の沙汰《さた》である。
しばらく黙っていた先生は、やや落ちついた調子で、
「君は結婚を極《きわ》めて容易《たやすい》事のように考えているが、そんなものじゃない」と口惜《くちおし》そうに云う。
先生の云う主意は分らんが、先生の様子にはさすがの浅井君も少し心を動かした。しかし結婚は便宜《べんぎ》によって約束を取り結び、便宜によって約束を破棄するだけで差支《さしつかえ》ないと信じている浅井君は、別に返事もしなかった。
「君は女の心を知らないから、そんな使に来たんだろう」
浅井君はやっぱり黙っている。
「人情を知らないから平気でそんな事を云うんだろう。小野の方が破談になれば小夜は明日《あした》からどこへでも行けるだろうと思って、云うんだろう。五年以来|夫《おっと》だと思い込んでいた人から、特別の理由もないのに、急に断わられて、平気ですぐ他家《わき》へ嫁に行くような女があるものか。あるかも知れないが小夜はそんな軽薄な女じゃない。そんな軽薄に育て上げたつもりじゃない。――君はそう軽卒に破談の取次をして、小夜の生涯《しょうがい》を誤まらして、それで好い心持なのか」
先生の窪《くぼ》んだ眼が煮染《にじ》んで来た。しきりに咳が出る。浅井君はなるほどそれが事実ならと感心した。ようやく気の毒になってくる。
「じゃ、まあ御待ちなさい、先生。もう一遍小野に話して見ますから。僕はただ頼まれたから来たんで、そんな精《くわ》しい事情は知らんのですから」
「いや、話してくれないでも好い。厭《いや》だと云うものに無理に貰ってもらいたくはない。しかし本人が来て自家《じか》に訳を話すが好い」
「しかし御嬢さんが、そう云う御考だと……」
「小夜の考《かんがえ》ぐらい小野には分っているはずださ」と先生は平手《ひらて》で頬を打つように、ぴしゃりと云った。
「ですがな、それだと小野も困るでしょうから、もう一遍……」
「小野にそう云ってくれ。井上孤堂はいくら娘が可愛くっても、厭だと云う人に頭を下げて貰ってもらうような卑劣な男ではないって。――小夜や、おい、いないか」
襖《ふすま》の向側《むこうがわ》で、袖《そで》らしいものが唐紙《からかみ》の裾《すそ》にあたる音がした。
「そう返事をして差支《さしつかえ》ないだろうね」
答はさらになかった。ややあって、わっと云う顔を袖の中に埋《うず》めた声がした。
「先生もう一遍小野に話しましょう」
「話さないでも好い。自家に来て断われと云ってくれ」
「とにかく……そう小野に云いましょう」
浅井君はついに立った。玄関まで送って来た先生に頭を下げた時、先生は
「娘なんぞ持つもんじゃないな」と云った。表へ出た浅井君はほっと息をつく。今までこんな感じを経験した事はない。横町を出て蕎麦屋《そばや》の行灯《あんどう》を右に通へ出て、電車のある所まで来ると突然飛び乗った。
突然電車に乗った浅井君は約一時間|余《よ》の後《のち》、ぶらりと宗近《むねちか》家の門からあらわれた。つづいて車が二挺出る。一挺は小野の下宿へ向う。一挺は孤堂先生の家に去る。五十分ほど後《おく》れて、玄関の松の根際に梶棒《かじぼう》を上げた一挺は、黒い幌《ほろ》を卸《おろ》したまま、甲野《こうの》の屋敷を指して馳《か》ける。小説はこの三挺の使命を順次に述べなければならぬ。
宗近君の車が、小野さんの下宿の前で、車輪《は》の音《おと》を留めた時、小野さんはちょうど午飯《ひるめし》を済ましたばかりである。膳《ぜん》が出ている。飯櫃《めしびつ》も引かれずにある。主人公は机の前へ座を移して、口から吹く濃き煙を眺めながら考えている。今日は藤尾《ふじお》と大森へ行く約束がある。約束だから行かなければならぬ。しかし是非行かねばならぬとなると、何となく気が咎《とが》める。不安である。約束さえしなければ、もう少しは太平であったろう。飯ももう一杯ぐらいは食えたかも知れぬ。賽《さい》は固《もと》より自分で投げた。一六《いちろく》の目は明かに出た。ルビコンは渡らねばならぬ。しかし事もなげに河を横切った該撒《シーザー》は英雄である。通例の人はいざと云う間際《まぎわ》になってからまた思い返す。小野さんは思い返すたびに、必ず廃《よ》せばよかったと後悔する。乗り掛けた船に片足を入れた時、船頭が出ますよと棹《さお》を取り直すと、待ってくれと云いたくなる。誰か陸《おか》から来て引っ張ってくれれば好いと思う。乗り掛けたばかりならまだ陸へ戻る機会があるからである。約束も履行《りこう》せんうちは岸を離れぬ舟と同じく、まだ絶体絶命と云う場合ではない。メレジスの小説にこんな話がある。――ある男とある女が諜《しめ》し合せて、停車場《ステーション》で落ち合う手筈《てはず》をする。手筈が順に行って、汽笛《きてき》がひゅうと鳴れば二人の名誉はそれぎりになる。二人の運命がいざと云う間際まで逼《せま》った時女はついに停車場へ来なかった。男は待ち耄《ぼけ》の顔を箱馬車の中に入れて、空しく家《うち》へ帰って来た。あとで聞くと朋友《ほうゆう》の誰彼が、女を抑留して、わざと約束の期を誤まらしたのだと云う。――藤尾と約束をした小野さんは、こんな風に約束を破る事が出来たら、かえって仕合《しあわせ》かも知れぬと思いつつ煙草の煙を眺めている。それに浅井の返事がまだ来ない。諾《だく》と云えばどっちへ転んでも幸《さいわい》である。否《ひ》と聞くならば、退《の》っ引《ぴ》きならぬ瀬戸際《せとぎわ》まであらかじめ押して置いて、振り返ってから、臨機応変に難関を切り抜けて行くつもりの計画だから、一刻も早く大森へ行ってしまえば済む。否《ひ》と云う返事を待つ必要は無論ない。ないが、決行する間際になると気掛りになる。頭で拵《こしら》え上げた計画を人情が崩《くず》しにかか驕B想像力が実行させぬように引き戻す。小野さんは詩人だけにもっとも想像力に富んでいる。
想像力に富んでおればこそ、自分で断わりに行く気になれなかった。先生の顔と小夜子の顔と、部屋の模様と、暮しの有様とを眼《ま》のあたりに見て、眼のあたりに見たものを未来に延長《ひきのば》して想像の鏡に思い浮べて眺《なが》めると二《ふ》た通《とおり》になる。自分がこの鏡のなかに織り込まれているときは、春である、豊である、ことごとく幸福である。鏡の面《おもて》から自分の影を拭き消すと闇《やみ》になる、暮になる。すべてが悲惨《みじめ》になる。この一団の精神から、自分の魂だけを切り離す談判をするのは、小《ち》さき竈《かまど》に立つべき煙を予想しながら薪《たきぎ》を奪うと一般である。忍びない。人は眼を閉《つぶ》って苦《にが》い物を呑《の》む。こんな絡《から》んだ縁をふつりと切るのに想像の眼を開《あ》いていては出来ぬ。そこで小野さんは眼の閉《つぶ》れた浅井君を頼んだ。頼んだ後《あと》は、想像を殺してしまえば済む。と覚束《おぼつか》ないが決心だけはした。しかし犬一匹でも殺すのは容易な事ではない。持って生れた心の作用を、不都合なところだけ黒く塗って、消し切りに消すのは、古来から幾千万人の試みた窮策で、幾千万人が等しく失敗した陋策《ろうさく》である。人間の心は原稿紙とは違う。小野さんがこの決心をしたその晩から想像力は復活した。――
瘠《や》せた頬を描《えが》く。落ち込んだ眼を描く。縺《もつ》れた髪を描く。虫のような気息《いき》を描く。――そうして想像は一転する。
血を描く。物凄《ものすご》き夜と風と雨とを描く。寒き灯火《ともしび》を描く。白張《しらはり》の提灯《ちょうちん》を描く。――ぞっとして想像はとまる。
想像のとまった時、急に約束を思い出す。約束の履行から出る快《こころよ》からぬ結果を思い出す。結果はまたも想像の力で曲々《きょくきょく》の波瀾を起す。――良心を質に取られる。生涯受け出す事が出来ぬ。利に利がつもる。背中が重くなる、痛くなる、そうして腰が曲る。寝覚《ねざめ》がわるい。社会が後指《うしろゆび》を指《さ》す。
惘然《もうぜん》として煙草の煙を眺めている。恩賜の時計は一秒ごとに約束の履行を促《うな》がす。橇《そり》の上に力なき身を託したようなものである。手を拱《こま》ぬいていれば自然と約束の淵《ふち》へ滑《すべ》り込む。「時」の橇《そり》ほど正確に滑るものはない。
「やっぱり行く事にするか。後暗《うしろぐら》い行《おこない》さえなければ行
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