に嫌われたよ。黙ってる方がいい」
「うん黙っている」
「藤尾には君のような人格は解らない。浅墓《あさはか》な跳《は》ね返《かえ》りものだ。小野にやってしまえ」
「この通り頭ができた」
 宗近君は節太《ふしぶと》の手を胸から抜いて、刈《か》り立《たて》の頭の天辺《てっぺん》をとんと敲いた。
 甲野さんは眼尻に笑の波を、あるか、なきかに寄せて重々《おもおも》しく首肯《うなず》いた。あとから云う。
「頭ができれば、藤尾なんぞは要《い》らないだろう」
 宗近君は軽くうふん[#「うふん」に傍点]と云ったのみである。
「それでようやく安心した」と甲野さんは、くつろいだ片足を上げて、残る膝頭《ひざがしら》の上へ載《の》せる。宗近君は巻煙草を燻《くゆ》らし始めた。吹く煙のなかから、
「これからだ」と独語《ひとりごと》のように云う。
「これからだ。僕もこれからだ」と甲野さんも独語のように答えた。
「君もこれからか。どうこれからなんだ」と宗近君は煙草の煙《けむ》を押し開いて、元気づいた顔を近寄《ちかよせ》た。
「本来の無一物から出直すんだからこれからさ」
 指の股に敷島《しきしま》を挟んだまま、持って行く口のある事さえ忘れて、呆気《あっけ》に取られた宗近君は、
「本来の無一物から出直すとは」と自《みずか》ら自らの頭脳を疑うごとく問い返した。甲野さんは尋常の調子で、落ちつき払った答をする。――
「僕はこの家《うち》も、財産も、みんな藤尾にやってしまった」
「やってしまった? いつ」
「もう少しさっき。その紋尽しを書いている時だ」
「そりゃ……」
「ちょうどその丸に三《み》つ鱗《うろこ》を描《か》いてる時だ。――その模様が一番よく出来ている」
「やってしまうってそう容易《たやす》く……」
「何|要《い》るものか。あればあるほど累《わずらい》だ」
「御叔母《おば》さんは承知したのかい」
「承知しない」
「承知しないものを……それじゃ御叔母さんが困るだろう」
「やらない方が困るんだ」
「だって御叔母さんは始終《しじゅう》君がむやみな事をしやしまいかと思って心配しているんじゃないか」
「僕の母は偽物《にせもの》だよ。君らがみんな欺《あざむ》かれているんだ。母じゃない謎《なぞ》だ。澆季《ぎょうき》の文明の特産物だ」
「そりゃ、あんまり……」
「君は本当の母でないから僕が僻《ひが》んでいると思っているんだろう。それならそれで好いさ」
「しかし……」
「君は僕を信用しないか」
「無論信用するさ」
「僕の方が母より高いよ。賢いよ。理由《わけ》が分っているよ。そうして僕の方が母より善人だよ」
 宗近君は黙っている。甲野さんは続けた。――
「母の家を出てくれるなと云うのは、出てくれと云う意味なんだ。財産を取れと云うのは寄こせと云う意味なんだ。世話をして貰いたいと云うのは、世話になるのが厭《いや》だと云う意味なんだ。――だから僕は表向母の意志に忤《さから》って、内実は母の希望通にしてやるのさ。――見たまえ、僕が家《うち》を出たあとは、母が僕がわるくって出たように云うから、世間もそう信じるから――僕はそれだけの犠牲をあえてして、母や妹のために計ってやるんだ」
 宗近君は突然|椅子《いす》を立って、机の角《かど》まで来ると片肘《かたひじ》を上に突いて、甲野さんの顔を掩《お》いかぶすように覗《のぞ》き込《こ》みながら、
「貴様、気が狂ったか」と云った。
「気違は頭から承知の上だ。――今まででも蔭じゃ、馬鹿の気違のと呼びつづけに呼ばれていたんだ」
 この時宗近君の大きな丸い眼から涙がぽたぽたと机の上のレオパルジに落ちた。
「なぜ黙っていたんだ。向《むこう》を出してしまえば好いのに……」
「向を出したって、向の性格は堕落するばかりだ」
「向を出さないまでも、こっちが出るには当るまい」
「こっちが出なければ、こっちの性格が堕落するばかりだ」
「なぜ財産をみんなやったのか」
「要《い》らないもの」
「ちょっと僕に相談してくれれば好かったのに」
「要らないものをやるのに相談の必要もなにもないからさ」
 宗近君はふうん[#「ふうん」に傍点]と云った。
「僕に要らない金のために、義理のある母や妹を堕落させたところが手柄にもならない」
「じゃいよいよ家を出る気だね」
「出る。おれば両方が堕落する」
「出てどこへ行く」
「どこだか分らない」
 宗近君は机の上にあるレオパルジを無意味に取って、背皮《せがわ》を竪《たて》に、勾配《こうばい》のついた欅《けやき》の角でとんとんと軽く敲《たた》きながら、少し沈吟《ちんぎん》の体《てい》であったが、やがて、
「僕のうちへ来ないか」と云う。
「君のうちへ行ったって仕方がない」
「厭《いや》かい」
「厭じゃないが、仕方がない」
 宗近君はじっと甲野さんを見た。
「甲野さん。頼むから来てくれ。僕や阿父《おやじ》のためはとにかく、糸公のために来てやってくれ」
「糸公のために?」
「糸公は君の知己だよ。御叔母《おば》さんや藤尾さんが君を誤解しても、僕が君を見損《みそこ》なっても、日本中がことごとく君に迫害を加えても、糸公だけはたしかだよ。糸公は学問も才気もないが、よく君の価値《ねうち》を解している。君の胸の中を知り抜いている。糸公は僕の妹だが、えらい女だ。尊《たっと》い女だ。糸公は金が一文もなくっても堕落する気遣《きづかい》のない女だ。――甲野さん、糸公を貰ってやってくれ。家《うち》を出ても好い。山の中へ這入《はい》っても好い。どこへ行ってどう流浪《るろう》しても構わない。何でも好いから糸公を連れて行ってやってくれ。――僕は責任をもって糸公に受合って来たんだ。君が云う事を聞いてくれないと妹に合す顔がない。たった一人の妹を殺さなくっちゃならない。糸公は尊《たっと》い女だ、誠のある女だ。正直だよ、君のためなら何でもするよ。殺すのはもったいない」
 宗近君は骨張った甲野さんの肩を椅子の上で振り動かした。

        十八

 小夜子《さよこ》は婆さんから菓子の袋を受取った。底を立てて出雲焼《いずもやき》の皿に移すと、真中にある青い鳳凰《ほうおう》の模様が和製のビスケットで隠れた。黄色な縁《ふち》はだいぶ残っている。揃《そろ》えて渡す二本の竹箸《たけばし》を、落さぬように茶の間から座敷へ持って出た。座敷には浅井君が先生を相手に、京都以来の旧歓を暖めている。時は朝である。日影はじりじりと椽《えん》に逼《せま》ってくる。
「御嬢さんは、東京を御存じでしたな」と問いかけた。
 菓子皿を主客の間に置いて、やさしい肩を後《うしろ》へ引くついでに、
「ええ」と小声に答えて、立ち兼ねた。
「これは東京で育ったのだよ」と先生が足らぬところを補ってくれる。
「そうでしたな。――大変大きくなりましたな」と突然別問題に飛び移った。
 小夜子は淋しい笑顔を俯向《うつむ》けて、今度は答さえも控えた。浅井君は遠慮のない顔をして小夜子を眺《なが》めている。これからこの女の結婚問題を壊すんだなと思いながら平気に眺めている。浅井君の結婚問題に関する意見は大道易者のごとく容易である。女の未来や生涯《しょうがい》の幸福についてはあまり同情を表《ひょう》しておらん。ただ頼まれたから頼まれたなりに事を運べば好いものと心得ている。そうしてそれがもっとも法学士的で、法学士的はもっとも実際的で、実際的は最上の方法だと心得ている。浅井君はもっとも想像力の少ない男で、しかも想像力の少ないのをかつて不足だと思った事のない男である。想像力は理知の活動とは全然別作用で、理知の活動はかえって想像力のために常に阻害《そがい》せらるるものと信じている。想像力を待って、始めて、全《まっ》たき人性に戻《もと》らざる好処置が、知慧《ちえ》分別の純作用以外に活《い》きてくる場合があろうなどとは法科の教室で、どの先生からも聞いた事がない。したがって浅井君はいっこう知らない。ただ断われば済むと思っている。淋しい小夜子の運命が、夫子《ふうし》の一言《いちごん》でどう変化するだろうかとは浅井君の夢にだも考え得ざる問題である。
 浅井君が無意味に小夜子を眺めているうちに、孤堂《こどう》先生は変な咳を二つ三つ塞《せ》いた。小夜子は心元なく父の方《かた》を向く。
「御薬はもう上がったんですか」
「朝の分はもう飲んだよ」
「御寒い事はござんせんか」
「寒くはないが、少し……」
 先生は右の手頸《てくび》へ左の指を三本|懸《か》けた。小夜子は浅井のいる事も忘れて、脈をはかる先生の顔ばかり見詰めている。先生の顔は髯《ひげ》と共に日ごとに細長く瘠《や》せこけて来る。
「どうですか」と気遣《きづか》わし気《げ》に聞く。
「少し、早いようだ。やっぱり熱が除《と》れない」と額に少し皺《しわ》が寄った。先生が熱度を計って、じれったそうに不愉快な顔をするたびに小夜子は悲しくなる。夕立を野中に避けて、頼《たより》と思う一本杉をありがたしと梢《こずえ》を見れば稲妻《いなずま》がさす。怖《こわ》いと云うよりも、年を取った人に気の毒である。行き届かぬ世話から出る疳癪《かんしゃく》なら、機嫌《きげん》の取りようもある。気で勝てぬ病気のためなら孝行の尽しようがない。かりそめの風邪《かぜ》と、当人も思い、自分も苦《く》にしなかった昨日今日《きのうきょう》の咳《せき》を、蔭へ廻って聞いて見ると、医者は性質《たち》が善くないと云う。二三日で熱が退《ひ》かないと云って焦慮《じれ》るような軽い病症ではあるまい。知らせれば心配する。云わねば気で通す。その上|疳《かん》を起す。この調子で進んで行くと、一年の後《のち》には神経が赤裸《あかはだか》になって、空気に触れても飛び上がるかも知れない。――昨夜《ゆうべ》小夜子は眼を合せなかった。
「羽織でも召していらしったら好いでしょう」
 孤堂先生は返事をせずに、
「験温器があるかい。一つ計ってみよう」と云う。小夜子は茶の間へ立つ。
「どうかなすったんですか」と浅井君が無雑作《むぞうさ》に尋ねた。
「いえ、ちっと風邪《かぜ》を引いてね」
「はあ、そうですか。――もう若葉がだいぶ出ましたな」と云った。先生の病気に対してはまるで同情も頓着《とんじゃく》もなかった。病気の源因と、経過と、容体を精《くわ》しく聞いて貰おうと思っていた先生は当《あて》が外《はず》れた。
「おい、無いかね。どうした」と次の間を向いて、常よりは大きな声を出す。ついでに咳が二つ出た。
「はい、ただ今」と小《ち》さい声が答えた。が験温器を持って出る様子がない。先生は浅井君の方を向いて
「はあ、そうかい」と気のない返事をした。
 浅井君はつまらなくなる。早く用を片づけて帰ろうと思う。
「先生小野はいっこう駄目ですな、ハイカラにばかりなって。御嬢さんと結婚する気はないですよ」とぱたぱたと順序なく並べた。
 孤堂先生の窪《くぼ》んだ眼《まなこ》は一度に鋭どくなった。やがて鋭どいものが一面に広がって顔中|苦々《にがにが》しくなる。
「廃《よ》した方が好《え》えですな」
 置き失《な》くした験温器を捜《さ》がしていた、次の間の小夜子は、長火鉢の二番目の抽出《ひきだし》を二寸ほど抜いたまま、はたりと引く手を留めた。
 先生の苦々《にがにが》しい顔は一層こまやかになる。想像力のない浅井君はとんと結果を予想し得ない。
「小野は近頃非常なハイカラになりました。あんな所へ行くのは御嬢さんの損です」
 苦々しい顔はとうとう持ち切れなくなった。
「君は小野の悪口を云いに来たのかね」
「ハハハハ先生本当ですよ」
 浅井君は妙なところで高笑をいた。
「余計な御世話だ。軽薄な」と鋭どく跳《は》ねつけた。先生の声はようやく尋常を離れる。浅井君は始めて驚ろいた。しばらく黙っている。
「おい験温器はまだか。何をぐずぐずしている」
 次の間の返事は聞えなかった。ことりとも云わぬうちに、片寄せた障子《しょうじ》に影がさす。腰板の外《はずれ》から細い白木の筒《つつ》がそっと出る。畳の上で受取った先生はぽんと云わ
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