好《え》え」
「そんなにあるものか」
「じゃ十円でも好え。五円でも好え」
浅井君はいくらでも下げる。小野さんは両肘《りょうひじ》を鉄の手擦《てすり》に後《うしろ》から持たして、山羊仔《キッド》の靴を心持前へ出した。煙草を啣《くわ》えたまま、眼鏡越に爪先の飾を眺《なが》めている。遅日《ちじつ》影長くして光を惜まず。拭き込んだ皮の濃《こまや》かに照る上に、眼に入らぬほどの埃《ほこり》が一面に積んでいる。小野さんは携えた細手の洋杖《ステッキ》で靴の横腹をぽんぽんと鞭《むち》うった。埃は靴を離れて一寸《いっすん》ほど舞い上がる。鞭うたれた局部だけは斑《まだら》に黒くなった。並んで見える浅井の靴は、兵隊靴のごとく重くかつ無細工《ぶさいく》である。
「十円くらいなら都合が出来ない事もないが――いつ頃《ごろ》まで」
「今月|末《すえ》にはきっと返す。それで好かろう」と浅井君は顔を寄せて来る。小野さんは口から煙草を離した。指の股《また》に挟んだまま、一振はたくと三分《さんぶ》の灰は靴の甲に落ちた。
体《たい》をそのままに白い襟《えり》の上から首だけを横に捩《ねじ》ると、欄干《らんかん》に頬杖《ほおづえ》をついた人の顔が五寸下に見える。
「今月末でも、いつでも好い。――その代り少し御願がある。聞いてくれるかい」
「うん、話して見い」
浅井君は容易に受合った。同時に頬杖をやめて背を立てる。二人の顔はすれすれに来た。
「実は井上先生の事だがね」
「おお、先生はどうしとるか。帰ってから、まだ尋ねる閑《ひま》がないから、行かんが。君先生に逢《お》うたら宜《よろ》しく云うてくれ。ついでに御嬢さんにも」
浅井君はハハハハと高く笑った。ついでに欄干から胸をつき出して、涎《よだれ》のごとき唾《つば》を遥《はる》かの下に吐いた。
「その御嬢さんの事なんだが……」
「いよいよ結婚するか」
「君は気が早くっていけない。そう先へ云っちまっちゃあ……」と言葉を切って、しばらく麦畑を眺めていたが、たちまち手に持った吸殻を向《むこう》へ投げた。白いカフスが七宝《しっぽう》の夫婦釦《めおとボタン》と共にかしゃと鳴る。一寸に余る金が空《くう》を掠《かす》めて橋の袂《たもと》に落ちた。落ちた煙は逆様《さかさま》に地から這《は》い揚《あ》がる。
「もったいない事をするのう」と浅井君が云った。
「君本当に僕の云う事を聞いてくれるのかい」
「本当に聞いとる。それから」
「それからって、まだ何にも話しゃしないじゃないか。――金の工面はどうでもするが、君に折入って御願があるんだよ」
「だから話せ。京都からの知己じゃ。何でもしてやるぞ」
調子はだいぶ熱心である。小野さんは片肘《かたひじ》を放して、ぐるりと浅井君の方へ向き直る。
「君ならやってくれるだろうと思って、実は君の帰るのを待っていたところだ」
「そりゃ、好《え》え時に帰って来た。何か談判でもするのか。結婚の条件か。近頃は無財産の細君を貰うのは不便だからのう」
「そんな事じゃない」
「しかし、そう云う条件を付けて置く方が君の将来のために好《え》えぞ。そうせい。僕が懸合《かけお》うてやる」
「そりゃ貰《もら》うとなれば、そう云う談判にしても好いが……」
「貰う事は貰うつもりじゃろう。みんな、そう思うとるぞ」
「誰が」
「誰がてて、我々が」
「そりゃ困る。僕が井上の御嬢さんを貰うなんて、――そんな堅い約束はないんだからね」
「そうか。――いや怪しいぞ」と浅井君が云った。小野さんは腹の中で下等な男だと思う。こんな男だから破談を平気に持ち込む事が出来るんだと思う。
「そう頭から冷やかしちゃ話が出来ない」と故《もと》のようなおとなしい調子で云う。
「ハハハハ。そう真面目《まじめ》にならんでも好い。そうおとなしくちゃ損だぞ。もう少し面《つら》の皮を厚くせんと」
「まあ少し待ってくれたまえ。修業中なんだから」
「ちと稽古《けいこ》のためにどっかへ連れて行ってやろうか」
「何分|宜《よろ》しく……」
「などと云って、裏では盛《さかん》に修業しとるかも知れんの」
「まさか」
「いやそうでないぞ。近頃だいぶ修飾《しゃれ》るところをもって見ると。ことにさっきの巻煙草入の出所《でどころ》などははなはだ疑わしい。そう云えばこの煙草も何となく妙な臭《におい》がするわい」
浅井君はここに至って指の股に焦《こ》げついて来そうな煙草を、鼻の先へ持って来てふんふんと二三度|嗅《か》いだ。小野さんはいよいよノンセンスなわる洒落《じゃれ》だと思った。
「まあ歩きながら話そう」
悪洒落の続きを切るために、小野さんは一歩橋の真中《まんなか》へ踏み出した。浅井君の肘《ひじ》は欄干を離れる。右左地を抜く麦に、日は空から寄って来る。暖かき緑は穂を掠《かす》めて畦《あぜ》を騰《のぼ》る。野を蔽《おお》う一面の陽炎《かげろう》は逆上《のぼせ》るほどに二人を込めた。
「暑いのう」と浅井君は後《あと》から跟《つ》いて来る。
「暑い」と待ち合わした小野さんは、肩の並んだ時、歩き出す。歩き出しながら真面目《まじめ》な問題に入る。
「さっきの話だが――実は二三日前井上先生の所へ行ったところが、先生から突然例の縁談一条を持ち出されて、ね。……」
「待ってましたじゃ」と受けた浅井君はまた何か云いそうだから、小野さんは談話の速力を増して、急に進行してしまう。――
「先生が随分はげしく来たので、僕もそう世話になった先生の感情を害する訳にも行かないから、熟考するために二三日の余裕を与えて貰って帰ったんだがね」
「そりゃ慎重の……」
「まあしまいまで聞いてくれたまえ。批評はあとで緩《ゆっ》くり聞くから。――それで僕も、君の知っている通《とおり》、先生の世話には大変なったんだから、先生の云う事は何でも聞かなければ義理がわるい……」
「そりゃ悪い」
「悪いが、ほかの事と違って結婚問題は生涯《しょうがい》の幸福に関係する大事件だから、いくら恩のある先生の命令だって、そう、おいそれと服従する訳にはいかない」
「そりゃいかない」
小野さんは、相手の顔をじろりと見た。相手は存外真面目である。話は進行する。――
「それも僕に判然たる約束をしたとか、あるいは御嬢さんに対して済まん関係でも拵《こし》らえたと云う大責任があれば、先生から催促されるまでもない。こっちから進んで、どうでも方《かた》をつけるつもりだが、実際僕はその点に関しては潔白なんだからね」
「うん潔白だ。君ほど高尚で潔白な人間はない。僕が保証する」
小野さんはまたじろりと浅井君の顔を見た。浅井君はいっこう気が着かない。話はまた進行する。――
「ところが先生の方では、頭から僕にそれだけの責任があるかのごとく見傚《みな》してしまって、そうして万事をそれから演繹《えんえき》してくるんだろう」
「うん」
「まさか根本に立ち返って、あなたの御考は出立点が間違っていますと誤謬《ごびゅう》を指摘する訳にも行かず……」
「そりゃ、あまり君が人が好過ぎるからじゃ。もう少し世の中に擦《す》れんと損だぞ」
「損は僕も知ってるんだが、どうも僕の性質として、そう露骨《むき》に人に反対する事が出来ないんだね。ことに相手は世話になった先生だろう」
「そう、相手が世話になった先生じゃからな」
「それに僕の方から云うと、今ちょうど博士論文を書きかけている最中だから、そんな話を持ち込まれると余計困るんだ」
「博士論文をまだ書いとるか、えらいもんじゃな」
「えらい事もない」
「なにえらい。銀時計の頭でなくちゃ、とても出来ん」
「そりゃどうでも好《い》いが、――それでね、今云う通りの事情だから、せっかくの厚意はありがたいけれども、まあここのところはいったん断わりたいと思うんだね。しかし僕の性質じゃ、とても先生に逢《あ》うと気の毒で、そんな強い事が云えそうもないから、それで君に頼みたいと云う訳だが。どうだね、引き受けてくれるかい」
「そうか、訳ない。僕が先生に逢《お》うてよく話してやろう」
浅井君は茶漬を掻《か》き込《こ》むように容易《たやす》く引き受けた。注文通りに行った小野さんは中休みに一二歩前へ移す。そうして云う。――
「その代り先生の世話は生涯《しょうがい》する考だ。僕もいつまでもこんなにぐずぐずしているつもりでもないから――実のところを云うと先生も故《もと》のように経済が楽じゃないようだ。だからなお気の毒なのさ。今度の相談もただ結婚と云う単純な問題じゃなくって、それを方便にして、僕の補助を受けたいような素振《そぶり》も見えたくらいだ。だから、そりゃやるよ。飽《あ》くまでも先生のために尽すつもりだ。だが結婚したから尽す、結婚せんから尽さないなんて、そんな軽薄な料簡《りょうけん》は少しもこっちにゃないんだから――世話になった以上はどうしたって世話になったのさ。それを返してしまうまではどうしたって恩は消えやしないからな」
「君は感心な男だ。先生が聞いたらさぞ喜ぶだろう」
「よく僕の意志が徹するように云ってくれたまえ。誤解が出来るとまた後《あと》が困るから」
「よし。感情を害せんようにの。よう云うてやる。その代り十円貸すんぜ」
「貸すよ」と小野さんは笑ながら答えた。
錐《きり》は穴を穿《うが》つ道具である。縄は物を括《くく》る手段である。浅井君は破談を申し込む器械である。錐でなくては松板を潜《くぐ》り抜けようと企《くわだ》てるものはない。縄でなくては栄螺《さざえ》を取り巻く覚悟はつかぬ。浅井君にして始めてこの談判を、風呂に行く気で、引き受ける事が出来る。小野さんは才人である。よく道具を用いるの法を心得ている。
ただ破談を申し込むのと、破談を申し込みながら、申し込んだ後を奇麗に片づけるのとは別才である。落葉を振うものは必ずしも庭を掃《は》く人とは限らない。浅井君はたとい内裏拝観《だいりはいかん》の際でも落葉を振いおとす事をあえてする無遠慮な男である。と共に、たとい内裏拝観の際でも一塵を掃《はら》う事を解せざるほどに無責任の男である。浅井君は浮ぶ術を心得ずして、水に潜《もぐ》る度胸者である。否潜るときに、浮ぶ術が必要であると考えつけぬ豪傑である。ただ引受ける。やって見ようと云う気で、何でも引き受ける。それだけである。善悪、理非、軽重《けいちょう》、結果を度外に置いて事物を考え得るならば、浅井君は他意なき善人である。
それほどの事を知らぬ小野さんではない。知って依頼するのはただ破談を申し込めばそれで構わんと見限《みきり》をつけたからである。先方で苦状《くじょう》を云えば逃げる気である。逃げられなくても、そのうち向うから泣寝入《なきねいり》にせねばならぬような準備をととのえてある。小野さんは明日《あした》藤尾と大森へ遊びに行く約束がある。――大森から帰ったあとならば大抵な事が露見しても、藤尾と関係を絶つ訳には行かぬだろう。そこで井上へは約束通り物質的の補助をする。
こう思い定めている小野さんは、浅井君が快よく依頼に応じた時、まず片荷《かたに》だけ卸《おろ》したなと思った。
「こう日が照ると、麦の香《におい》が鼻の先へ浮いてくるようだね」と小野さんの話頭はようやく自然に触れた。
「香《におい》がするかの。僕にはいっこうにおわんが」と浅井君は丸い鼻をふんふんと云わしたが、
「時に君はやはりあのハムレットの家《うち》へ行くのか」と聞く。
「甲野《こうの》の家かい。まだ行っている。今日もこれから行くんだ」と何気なく云う。
「この間京都へ行ったそうじゃな。もう帰ったか。ちと麦の香《におい》でも嗅《か》いで来たか知らんて。――つまらんのう、あんな人間は。何だか陰気くさい顔ばかりしているじゃないか」
「そうさね」
「ああ云う人間は早く死んでくれる方が好《え》え。だいぶ財産があるか」
「あるようだね」
「あの親類の人はどうした。学校で時々顔を見たが」
「宗近《むねちか》かい」
「そうそう。あの男の所へ二三日|中《うち》に行こうと思っとる」
小野さんは突然留った。
「何しに」
「口を
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