先決問題がある。――先決問題だよ、糸公」
「だから、どんなって、聞いてるじゃありませんか」
「ほかでもないが、甲野が坊主になるって騒ぎなんだよ」
「馬鹿をおっしゃい。縁喜《えんぎ》でもない」
「なに、今の世に坊主になるくらいな決心があるなら、縁喜はともかく、大《おおい》に慶すべき現象だ」
「苛《ひど》い事を……だって坊さんになるのは、酔興《すいきょう》になるんじゃないでしょう」
「何とも云えない。近頃のように煩悶《はんもん》が流行した日にゃ」
「じゃ、兄さんからなって御覧なさいよ」
「酔興にかい」
「酔興でも何でもいいから」
「だって五分刈《ごぶがり》でさえ懲役人と間違えられるところを青坊主になって、外国の公使館に詰めていりゃ気違としきゃ思われないもの。ほかの事なら一人の妹の事だから何でも聞くつもりだが、坊主だけは勘弁して貰いたい。坊主と油揚《あぶらげ》は小供の時から嫌《きらい》なんだから」
「じゃ欽吾さんもならないだって好いじゃありませんか」
「そうさ、何だか論理《ロジック》が少し変だが、しかしまあ、ならずに済むだろうよ」
「兄さんのおっしゃる事はどこまでが真面目《まじめ》でどこまでが冗談《じょうだん》だか分らないのね。それで外交官が勤まるでしょうか」
「こう云うんでないと外交官には向かないとさ」
「人を……それで欽吾さんがどうなすったんですよ。本当のところ」
「本当のところ、甲野がね。家《うち》と財産を藤尾にやって、自分は出てしまうと云うんだとさ」
「なぜでしょう」
「つまり、病身で御叔母《おば》さんの世話が出来ないからだそうだ」
「そう、御気の毒ね。ああ云う方は御金も家もいらないでしょう。そうなさる方が好いかも知れないわ」
「そう御前まで賛成しちゃ、先決問題が解決しにくくなる」
「だって御金が山のようにあったって、欽吾さんには何にもならないでしょう。それよりか藤尾さんに上げる方が好《よ》ござんすよ」
「御前は女に似合わず気前が好いね。もっとも人のものだけれども」
「私だって御金なんかいりませんわ。邪魔になるばかりですもの」
「邪魔にするほどないからたしかだ。ハハハハ。しかしその心掛は感心だ。尼になれるよ」
「おお厭《いや》だ。尼だの坊さんだのって大嫌い」
「そこだけは兄さんも賛成だ。しかし自分の財産を棄てて吾家《わがいえ》を出るなんて馬鹿気《ばかげ》ている。財産はまあいいとして、――欽吾に出られればあとが困るから藤尾に養子をする。すると一《はじめ》さんへは上げられませんと、こう御叔母《おば》さんが云うんだよ。もっともだ。つまり甲野のわがままで兄さんの方が破談になると云う始末さ」
「じゃ兄さんが藤尾さんを貰うために、欽吾さんを留めようと云うんですね」
「まあ一面から云えばそうなるさ」
「それじゃ欽吾さんより兄さんの方がわがままじゃありませんか」
「今度は非常に論理的《ロジカル》に来たね。だってつまらんじゃないか、当然相続している財産を捨てて」
「だって厭《いや》なら仕方がないわ」
「厭だなんて云うのは神経衰弱のせいだあね」
「神経衰弱じゃありませんよ」
「病的に違ないじゃないか」
「病気じゃありません」
「糸公、今日は例に似ず大いに断々乎《だんだんこ》としているね」
「だって欽吾さんは、ああ云う方なんですもの。それを皆《みんな》が病気にするのは、皆の方が間違っているんです」
「しかし健全じゃないよ。そんな動議を呈出するのは」
「自分のものを自分が棄《す》てるんでしょう」
「そりゃごもっともだがね……」
「要《い》らないから棄てるんでしょう」
「要らないって……」
「本当に要らないんですよ、甲野さんのは。負惜《まけおし》みや面当《つらあて》じゃありません」
「糸公、御前は甲野の知己《ちき》だよ。兄さん以上の知己だ。それほど信仰しているとは思わなかった」
「知己でも知己でなくっても、本当のところを云うんです。正しい事を云うんです。叔母さんや藤尾さんがそうでないと云うんなら、叔母さんや藤尾さんの方が間違ってるんです。私は嘘を吐《つ》くのは大嫌《だいきらい》です」
「感心だ。学問がなくっても誠から出た自信があるから感心だ。兄さん大賛成だ。それでね、糸公、改めて相談するが甲野が家《うち》を出ても出なくっても、財産をやってもやらなくっても、御前甲野のところへ嫁に行く気はあるかい」
「それは話がまるで違いますわ。今云ったのはただ正直なところを云っただけですもの。欽吾さんに御気の毒だから云ったんです」
「よろしい。なかなか訳が分っている。妹ながら見上げたもんだ。だから別問題として聞くんだよ。どうだね厭《いや》かい」
「厭だって……」とと言い懸《か》けて糸子は急に俯向《うつむ》いた。しばらくは半襟《はんえり》の模様を見詰めているように見えた。やがて瞬《しばたた》く睫《まつげ》を絡《から》んで一雫《ひとしずく》の涙がぽたりと膝《ひざ》の上に落ちた。
「糸公、どうしたんだ。今日は天候|劇変《げきへん》で兄さんに面喰《めんくら》わしてばかりいるね」
答のない口元が結んだまましゃくんで、見るうちにまた二雫《ふたしずく》落ちた。宗近君は親譲の背広《せびろ》の隠袋《かくし》から、くちゃくちゃの手巾《ハンケチ》をするりと出した。
「さあ、御拭き」と云いながら糸子の胸の先へ押し付ける。妹は作りつけの人形のようにじっとして動かない。宗近君は右の手に手巾を差し出したまま、少し及び腰になって、下から妹の顔を覗《のぞ》き込む。
「糸公|厭《いや》なのかい」
糸子は無言のまま首を掉《ふ》った。
「じゃ、行く気だね」
今度は首が動かない。
宗近君は手巾を妹の膝の上に落したまま、身体《からだ》だけを故《もと》へ戻す。
「泣いちゃいけないよ」と云って糸子の顔を見守っている。しばらくは双方共言葉が途切れた。
糸子はようやく手巾を取上げる。粗《あら》い銘仙《めいせん》の膝が少し染《しみ》になった。その上へ、手巾の皺《しわ》を叮嚀《ていねい》に延《の》して四つ折に敷いた。角《かど》をしっかり抑えている。それから眼を上げた。眼は海のようである。
「私は御嫁には行きません」と云う。
「御嫁には行かない」とほとんど無意味に繰り返した宗近君は、たちまち勢をつけて
「冗談云っちゃいけない。今厭じゃないと云ったばかりじゃないか」
「でも、欽吾さんは御嫁を御貰いなさりゃしませんもの」
「そりゃ聞いて見なけりゃ――だから兄さんが聞きに行くんだよ」
「聞くのは廃《よ》してちょうだい」
「なぜ」
「なぜでも廃してちょうだい」
「じゃしようがない」
「しようがなくっても好いから廃してちょうだい。私は今のままでちっとも不足はありません。これで好いんです。御嫁に行くとかえっていけません」
「困ったな、いつの間《ま》に、そう硬くなったんだろう。――糸公、兄さんはね、藤尾さんを貰うために、御前を甲野にやろうなんて利己主義で云ってるんじゃないよ。今のところじゃ、ただ御前の事ばかり考えて相談しているんだよ」
「そりゃ分っていますわ」
「そこが分りさえすれば、後《あと》が話がし好い。それでと、御前は甲野を嫌ってるんじゃなかろう。――よし、それは兄さんがそう認めるから構わない。好いかね。次に、甲野に貰うか貰わないか聞くのは厭だと云うんだね。兄さんにはその理窟《りくつ》がさらに解《げ》せないんだが、それも、それでよしとするさ。――聞くのは厭だとして、もし甲野が貰うと云いさえすれば行っても好いんだろう。――なに金や家はどうでも構わないさ。一文無《いちもんなし》の甲野のところへ行こうと云やあ、かえって御前の名誉だ。それでこそ糸公だ。兄さんも阿父《おとっ》さんも故障を云やしない。……」
「御嫁に行ったら人間が悪くなるもんでしょうか」
「ハハハハ突然大問題を呈出するね。なぜ」
「なぜでも――もし悪くなると愛想《あいそ》をつかされるばかりですもの。だからいつまでもこうやって阿父様《おとうさま》と兄さんの傍《そば》にいた方が好いと思いますわ」
「阿父様と兄さんと――そりゃ阿父様も兄さんもいつまでも御前といっしょにいたい事はいたいがね。なあ糸公、そこが問題だ。御嫁に行ってますます人間が上等になって、そうして御亭主に可愛がられれば好いじゃないか。――それよりか実際問題が肝要だ。そこでね、さっきの話だが兄さんが受合ったら好いだろう」
「何を」
「甲野に聞くのは厭だと、と云って甲野の方から御前を貰いに来るのはいつの事だか分らずと……」
「いつまで待ったって、そんな事があるものですか。私には欽吾さんの胸の中がちゃんと分っています」
「だからさ、兄さんが受合うんだよ。是非甲野にうんと云わせるんだよ」
「だって……」
「何云わせて見せる。兄さんが責任をもって受合うよ。なあに大丈夫だよ。兄さんもこの頭が延びしだい外国へ行かなくっちゃならない。すると当分糸公にも逢《あ》えないから、平生《へいぜい》親切にしてくれた御礼に、やってやるよ。――狐の袖無《ちゃんちゃん》の御礼に。ねえ好いだろう」
糸子は何とも答えなかった。下で阿父《おとっ》さんが謡《うたい》をうたい出す。
「そら始まった――じゃ行って来るよ」と宗近君は中二階《ちゅうにかい》を下りる。
十七
小野と浅井は橋まで来た。来た路は青麦の中から出る。行く路は青麦のなかに入る。一筋を前後に余して、深い谷の底を鉄軌《レエル》が通る。高い土手は春に籠《こも》る緑を今やと吹き返しつつ、見事なる切り岸を立て廻して、丸い屏風《びょうぶ》のごとく弧形に折れて遥《はる》かに去る。断橋《だんきょう》は鉄軌《レエル》を高きに隔つる事|丈《じょう》を重ねて十に至って南より北に横ぎる。欄に倚《よ》って俯《ふ》すとき広き両岸の青《せい》を極《きわ》めつくして、始めて石垣に至る。石垣を底に見下《みおろ》して始めて茶色の路《みち》が細く横《よこた》わる。鉄軌は細い路のなかに細く光る。――二人は断橋の上まで来て留《とま》った。
「いい景色だね」
「うん、ええ景色じゃ」
二人は欄に倚《よ》って立った。立って見る間《ま》に、限りなき麦は一分《いちぶ》ずつ延びて行く。暖たかいと云わんよりむしろ暑い日である。
青蓆《あおむしろ》をのべつに敷いた一枚の果《はて》は、がたりと調子の変った地味な森になる。黒ずんだ常磐木《ときわぎ》の中に、けばけばしくも黄を含む緑の、粉《こ》となって空に吹き散るかと思われるのは、樟《くす》の若葉らしい。
「久しぶりで郊外へ来て好い心持だ」
「たまには、こう云う所も好《え》えな。僕はしかし田舎《いなか》から帰ったばかりだからいっこう珍しゅうない」
「君はそうだろう。君をこんな所へ連れて来たのは少し気の毒だったね」
「なに構わん。どうせ遊《あす》んどるんだから。しかし人間も遊んどる暇があるようでは駄目じゃな、君。ちっとなんぞ金儲《かねもうけ》の口はないかい」
「金儲は僕の方にゃないが、君の方にゃたくさんあるだろう」
「いや近頃は法科もつまらん。文科と同じこっちゃ、銀時計でなくちゃ通用せん」
小野さんは橋の手擦《てすり》に背を靠《も》たせたまま、内隠袋《うちがくし》から例の通り銀製の煙草入を出してぱちりと開《あ》けた。箔《はく》を置いた埃及煙草《エジプトたばこ》の吸口が奇麗に並んでいる。
「一本どうだね」
「や、ありがとう。大変立派なものを持っとるの」
「貰い物だ」と小野さんは、自分も一本抜き取った後で、また見えない所へ投げ込んだ。
二人の煙はつつがなく立ち騰《のぼ》って、事なき空に入る。
「君は始終《しじゅう》こんな上等な煙草を呑《の》んどるのか。よほど余裕があると見えるの。少し貸さんか」
「ハハハハこっちが借りたいくらいだ」
「なにそんな事があるものか。少し貸せ。僕は今度国へ行ったんで大変|銭《ぜに》がいって困っとるところじゃ」
本気に云っているらしい。小野さんの煙草の煙がふうと横に走った。
「どのくらい要《い》るのかね」
「三十円でも二十円でも
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