がしら》を敲《たた》いた父《おとっ》さんは、視線さえ椽側《えんがわ》の方へ移した。最前植え易《か》えた仏見笑《ぶっけんしょう》が鮮《あざやか》な紅《くれない》を春と夏の境《さかい》に今ぞと誇っている。
「だけれども断ったんだか、断らないんだか分らないのは厄介《やっかい》ですね」
「厄介だよ。あの女にかかると今までも随分厄介な事がだいぶあった。猫撫声《ねこなでごえ》で長ったらしくって――私《わし》ゃ嫌《きらい》だ」
「ハハハハそりゃ好いが――ついに談判は発展しずにしまったんですか」
「つまり先方の云うところでは、御前が外交官の試験に及第したらやってもいいと云うんだ」
「じゃ訳ない。この通り及第したんだから」
「ところがまだあるんだ。面倒な事が。まことにどうも」と云いながら父《おとっ》さんは、手の平を二つ内側へ揃《そろ》えて眼の球をぐりぐり擦《こす》る。眼の球は赤くなる。
「及第しても駄目なんですか」
「駄目じゃあるまいが――欽吾《きんご》がうちを出ると云うそうだ」
「馬鹿な」
「もし出られてしまうと、年寄の世話の仕手がなくなる。だから藤尾に養子をしなければならない。すると宗近へでも、どこへでも嫁にやる訳には行かなくなると、まあこう云うんだな」
「下らない事を云うもんですね。第一甲野が家《うち》を出るなんて、そんな訳がないがな」
「家を出るって、まさか坊主になる料簡《りょうけん》でもなかろうが、つまり嫁を貰って、あの御袋の世話をするのが厭《いや》だと云うんだろうじゃないか」
「甲野が神経衰弱だから、そんな馬鹿気《ばかげ》た事を云うんですよ。間違ってる。よし出るたって――叔母さんが甲野を出して、養子をする気なんですか」
「そうなっては大変だと云って心配しているのさ」
「そんなら藤尾さんを嫁にやっても好さそうなものじゃありませんか」
「好い。好いが、万一の事を考えると私も心細くってたまらないと云うのさ」
「何が何だか分りゃしない。まるで八幡《やわた》の藪不知《やぶしらず》へ這入《はい》ったようなものだ」
「本当に――要領を得ないにも困り切る」
父《おとっ》さんは額に皺《しわ》を寄せて上眼《うわめ》を使いながら、頭を撫《な》で廻す。
「元来そりゃいつの事です」
「この間だ。今日で一週間にもなるかな」
「ハハハハ私《わたし》の及第報告は二三日|後《おく》れただけだが、父さんのは一週間だ。親だけあって、私より倍以上気楽ですぜ」
「ハハハだが要領を得ないからね」
「要領はたしかに得ませんね。早速要領を得るようにして来ます」
「どうして」
「まず甲野に妻帯の件を説諭して、坊主にならないようにしてしまって、それから藤尾さんをくれるかくれないか判然《はっきり》談判して来るつもりです」
「御前一人でやる気かね」
「ええ、一人でたくさんです。卒業してから何にもしないから、せめてこんな事でもしなくっちゃ退屈でいけない」
「うん、自分の事を自分で片づけるのは結構な事だ。一つやって見るが好い」
「それでね。もし甲野が妻《さい》を貰うと云ったら糸をやるつもりですが好いでしょうね」
「それは好い。構わない」
「一先《ひとまず》本人の意志を聞いて見て……」
「聞かんでも好かろう」
「だって、そりゃ聞かなくっちゃいけませんよ。ほかの事とは違うから」
「そんなら聞いて見るが好い。ここへ呼ぼうか」
「ハハハハ親と兄の前で詰問しちゃなおいけない。これから私が聞いて見ます。で当人が好いと云ったら、そのつもりで甲野に話しますからね」
「うん、よかろう」
宗近君はずんど切《ぎり》の洋袴《ズボン》を二本ぬっと立てた。仏見笑《ぶっけんしょう》と二人静《ふたりしずか》と蜆子和尚《けんすおしょう》と活《い》きた布袋《ほてい》の置物を残して廊下つづきを中二階《ちゅうにかい》へ上る。
とんとんと二段踏むと妹の御太鼓《おたいこ》が奇麗《きれい》に見える。三段目に水色の絹《リボン》が、横に傾いて、ふっくらした片頬《かたほ》が入口の方に向いた。
「今日は勉強だね。珍らしい。何だい」といきなり机の横へ坐り込む。糸子《いとこ》ははたりと本を伏せた。伏せた上へ肉のついた丸い手を置く。
「何でもありませんよ」
「何でもない本を読むなんて、天下の逸民だね」
「どうせ、そうよ」
「手を放したって好いじゃないか。まるで散らしでも取ったようだ」
「散らしでも何でも好くってよ。御生《ごしょう》だからあっちへ行ってちょうだい」
「大変邪魔にするね。糸公、父《おと》っさんが、そう云ってたぜ」
「何て」
「糸はちっと女大学でも読めば好いのに、近頃は恋愛小説ばかり読んでて、まことに困るって」
「あら嘘《うそ》ばっかり。私がいつそんなものを読んで」
「兄さんは知らないよ。阿父《おとっ》さんがそう云うんだから」
「嘘よ、阿父様《おとうさま》がそんな事をおっしゃるもんですか」
「そうかい。だって、人が来ると読み掛けた本を伏せて、枡落《ますおと》し見たように一生懸命におさえているところをもって見ると、阿父さんの云うところもまんざら嘘とは思えないじゃないか」
「嘘ですよ。嘘だって云うのに、あなたもよっぽど卑劣な方ね」
「卑劣は一大痛棒だね。注意人物の売国奴《ばいこくど》じゃないかハハハハ」
「だって人の云う事を信用なさらないんですもの。そんなら証拠を見せて上げましょうか。ね。待っていらっしゃいよ」
糸子は抑えた本を袖《そで》で隠さんばかりに、机から手本《てもと》へ引き取って、兄の見えぬように帯の影に忍ばした。
「掏《す》り替《か》えちゃいけないぜ」
「まあ黙って、待っていらっしゃい」
糸子は兄の眼を掠《かす》めて、長い袖の下に隠した本を、しきりに細工していたが、やがて
「ほら」と上へ出す。
両手で叮嚀《ていねい》に抑えた頁《ページ》の、残る一寸角《いっすんかく》の真中に朱印が見える。
「見留《みとめ》じゃないか。なんだ――甲野」
「分ったでしょう」
「借りたのかい」
「ええ。恋愛小説じゃないでしょう」
「種を見せない以上は何とも云えないが、まあ勘弁してやろう。時に糸公御前今年|幾歳《いくつ》になるね」
「当てて御覧なさい」
「当てて見ないだって区役所へ行きゃ、すぐ分る事だが、ちょいと参考のために聞いて見るんだよ。隠さずに云う方が御前の利益だ」
「隠さずに云う方がだって――何だか悪い事でもしたようね。私《わたし》厭《いや》だわ、そんなに強迫されて云うのは」
「ハハハハさすが哲学者の御弟子だけあって、容易に権威に服従しないところが感心だ。じゃ改めて伺うが、取って御幾歳《おいくつ》ですか」
「そんな茶化《ちゃか》したって、誰が云うもんですか」
「困ったな。叮嚀《ていねい》に云えば云うで怒るし。――一だったかね。二かい」
「おおかたそんなところでしょう」
「判然しないのか。自分の年が判然しないようじゃ、兄さんも少々心細いな。とにかく十代じゃないね」
「余計な御世話じゃありませんか。人の年齢《とし》なんぞ聞いて。――それを聞いて何になさるの」
「なに別の用でもないが、実は糸公を御嫁にやろうと思ってさ」
冗談半分に相手になって、調戯《からかわ》れていた妹の様子は突然と変った。熱い石を氷の上に置くと見る見る冷《さ》めて来る。糸子は一度に元気を放散した。同時に陽気な眼を陰に俯《ふ》せて、畳みの目を勘定《かんじょう》し出した。
「どうだい、御嫁は。厭《いや》でもないだろう」
「知らないわ」と低い声で云う。やっぱり下を向いたままである。
「知らなくっちゃ困るね。兄さんが行くんじゃない、御前が行くんだ」
「行くって云いもしないのに」
「じゃ行かないのか」
糸子は頭《かぶり》を竪《たて》に振った。
「行かない? 本当に」
答はなかった。今度は首さえ動かさない。
「行かないとなると、兄さんが切腹しなけりゃならない。大変だ」
俯向《うつむ》いた眼の色は見えぬ。ただ豊《ゆたか》なる頬を掠《かす》めて笑の影が飛び去った。
「笑い事じゃない。本当に腹を切るよ。好いかね」
「勝手に御切んなさい」と突然顔を上げた。にこにこと笑う。
「切るのは好いが、あんまり深刻だからね。なろう事ならこのまんまで生きている方が、御互に便利じゃないか。御前だってたった一人の兄さんに腹を切らしたって、つまらないだろう」
「誰もつまると云やしないわ」
「だから兄さんを助けると思ってうんと御云い」
「だって訳も話さないで、藪《やぶ》から棒《ぼう》にそんな無理を云ったって」
「訳は聞《きき》さえすれば、いくらでも話すさ」
「好くってよ、訳なんか聞かなくっても、私御嫁なんかに行かないんだから」
「糸公御前の返事は鼠花火《ねずみはなび》のようにくるくる廻っているよ。錯乱体《さくらんたい》だ」
「何ですって」
「なに、何でもいい、法律上の術語だから――それでね、糸公、いつまで行っても埓《らち》が明かないから、一《ひ》と思《おもい》に打ち明けて話してしまうが、実はこうなんだ」
「訳は聞いても御嫁にゃ行かなくってよ」
「条件つきに聞くつもりか。なかなか狡猾《こうかつ》だね。――実は兄さんが藤尾さんを御嫁に貰おうと思うんだがね」
「まだ」
「まだって今度《こんだ》が始《はじめ》てだね」
「だけれど、藤尾さんは御廃《およ》しなさいよ。藤尾さんの方で来たがっていないんだから」
「御前この間もそんな事を云ったね」
「ええ、だって、厭《いや》がってるものを貰わなくっても好いじゃありませんか。ほかに女がいくらでも有るのに」
「そりゃ大いにごもっともだ。厭なものを強請《ねだ》るなんて卑怯な兄さんじゃない。糸公の威信にも関係する。厭なら厭と事がきまればほかに捜すよ」
「いっそそうなすった方がいいでしょう」
「だがその辺が判然しないからね」
「だから判然させるの。まあ」と内気な妹は少し驚いたように眼を机の上に転じた。
「この間甲野の御叔母《おば》さんが来て、下で内談をしていたろう。あの時その話があったんだとさ。叔母さんが云うには、今はまだいけないが、一《はじめ》さんが外交官の試験に及第して、身分がきまったら、どうでも御相談を致しましょうって阿爺《おとっさん》に話したそうだ」
「それで」
「だから好いじゃないか、兄さんがちゃんと外交官の試験に及第したんだから」
「おや、いつ」
「いつって、ちゃんと及第しちまったんだよ」
「あら、本当なの、驚ろいた」
「兄が及第して驚ろく奴があるもんか。失礼千万な」
「だって、そんなら早くそうおっしゃれば好いのに。これでもだいぶ心配して上げたんだわ」
「全く御前の御蔭《おかげ》だよ。大いに感泣《かんきゅう》しているさ。感泣はしているようなものの忘れちまったんだから仕方がない」
兄妹は隔《へだて》なき眼と眼を見合せた。そうして同時に笑った。
笑い切った時、兄が云う。
「そこで兄さんもこの通り頭を刈って、近々《きんきん》洋行するはずになったんだが、阿父《おとっ》さんの云うには、立つ前に嫁を貰《もら》って人格を作ってけって責めるから、兄さんが、どうせ貰うなら藤尾さんを貰いましょう。外交官の妻君にはああ云うハイカラでないと将来困るからと云ったのさ」
「それほど御気に入ったら藤尾さんになさい。――女を見るのはやっぱり女の方が上手ね」
「そりゃ才媛糸公の意見に間違はなかろうから、充分兄さんも参考にはするつもりだが、とにかく判然談判をきめて来なくっちゃいけない。向うだって厭《いや》なら厭と云うだろう。外交官の試験に及第したからって、急に気が変って参りましょうなんて軽薄な事は云うまい」
糸子は微《かす》かな笑を、二三段に切って鼻から洩《もら》した。
「云うかね」
「どうですか。聞いて御覧なさらなくっちゃ――しかし聞くなら欽吾さんに御聞きなさいよ。恥を掻《か》くといけないから」
「ハハハハ厭なら断《ことわ》るのが天下の定法《じょうほう》だ。断わられたって恥じゃない……」
「だって」
「……ないが甲野に聞くよ。聞く事は甲野に聞くが――そこに問題がある」
「どんな」
「
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