間を、一筋の金泥《きんでい》が蜿蜒《えんえん》と縁《ふち》まで這上《はいあが》る。形は甕《かめ》のごとく、鉢《はち》が開いて、開いた頂《いただき》が、がっくりと縮まると、丸い縁《ふち》になる。向い合せの耳を潜《くぐ》る蔓《つる》には、ぎりぎりと渋《しぶ》を帯びた籐《と》を巻きつけて手提《てさげ》の便を計る。
 宗近の父《おとっ》さんは昨日《きのう》どこの古道具屋からか、継《つぎ》のあるこの煙草盆を堀り出して来て、今朝から祥瑞だ、祥瑞だと騒いだ結果、灰を入れ、火を入れ、しきりに煙草を吸っている。
 ところへ入口の唐紙《からかみ》をさらりと開けて、宗近君が例のごとく活溌《かっぱつ》に這入《はい》って来る。父は煙草盆から眼を離した。見ると忰《せがれ》は親譲りの背広をだぶだぶに着て、カシミヤの靴足袋《くつたび》だけに、大なる通《つう》をきめている。
「どこぞへ行くかね」
「行くんじゃない、今帰ったところです。――ああ暑い。今日はよっぽど暑いですね」
「家《うち》にいると、そうでもない。御前はむやみに急ぐから暑いんだ。もう少し落ちついて歩いたらどうだ」
「充分落ちついているつもりなんだが、そう見えないかな。弱るな。――やあ、とうとう煙草盆へ火を入れましたね。なるほど」
「どうだ祥瑞は」
「何だか酒甕《さかがめ》のようですね」
「なに煙草盆さ。御前達が何だかだって笑うが、こうやって灰を入れて見るとやっぱり煙草盆らしいだろう」
 老人は蔓《つる》を持って、ぐっと祥瑞を宙に釣るし上げた。
「どうだ」
「ええ。好いですね」
「好いだろう。祥瑞は贋《にせ》の多いもんで容易には買えない」
「全体いくらなんですか」
「いくらだか当てて御覧」
「見当が着きませんね。滅多《めった》な事を云うとまたこの間の松見たように頭ごなしに叱られるからな」
「壱円八十銭だ。安いもんだろう」
「安いですかね」
「全く堀出《ほりだし》だ」
「へええ――おや椽側にもまた新らしい植木が出来ましたね」
「さっき万両《まんりょう》と植え替えた。それは薩摩《さつま》の鉢《はち》で古いものだ」
「十六世紀頃の葡萄耳《ポルトガル》人が被った帽子のような恰好《かっこう》ですね。――この薔薇《ばら》はまた大変赤いもんだな、こりゃあ」
「それは仏見笑《ぶっけんしょう》と云ってね。やっぱり薔薇の一種だ」
「仏見笑? 妙な名だな」
「華厳経《けごんきょう》に外面《げめん》如菩薩《にょぼさつ》、内心《ないしん》如夜叉《にょやしゃ》と云う句がある。知ってるだろう」
「文句だけは知ってます」
「それで仏見笑と云うんだそうだ。花は奇麗だが、大変|刺《とげ》がある。触《さわ》って御覧」
「なに触らなくっても結構です」
「ハハハハ外面如菩薩、内心如夜叉。女は危ないものだ」と云いながら、老人は雁首《がんくび》の先で祥瑞《しょんずい》の中を穿《ほじく》り廻す。
「むずかしい薔薇があるもんだな」と宗近君は感心して仏見笑を眺《なが》めている。
「うん」と老人は思い出したように膝を打つ。
「一《はじめ》あの花を見た事があるかい。あの床《とこ》に挿《さ》してある」
 老人はいながら、顔の向を後《うしろ》へ変える。捩《ねじ》れた頸《くび》に、行き所を失った肉が、三筋ほど括《くび》られて肩の方へ競《せ》り出して来る。
 茶がかった平床《ひらどこ》には、釣竿を担《かつ》いだ蜆子和尚《けんすおしょう》を一筆《ひとふで》に描《か》いた軸《じく》を閑静に掛けて、前に青銅の古瓶《こへい》を据《す》える。鶴ほどに長い頸の中から、すいと出る二茎《ふたくき》に、十字と四方に囲う葉を境に、数珠《じゅず》に貫《ぬ》く露の珠《たま》が二穂《ふたほ》ずつ偶《ぐう》を作って咲いている。
「大変細い花ですね。――見た事がない。何と云うんですか」
「これが例の二人静《ふたりしずか》だ」
「例の二人静? 例にも何にも今まで聞いた事がないですね」
「覚えて置くがいい。面白い花だ。白い穂がきっと二本ずつ出る。だから二人静。謡曲に静の霊が二人して舞うと云う事がある。知っているかね」
「知りませんね」
「二人静。ハハハハ面白い花だ」
「何だか因果《いんが》のある花ばかりですね」
「調べさえすれば因果はいくらでもある。御前、梅に幾通《いくとおり》あるか知ってるか」と煙草盆を釣るして、また煙管《きせる》の雁首で灰の中を掻《か》き廻す。宗近君はこの機に乗じて話頭を転換した。
「阿爺《おとっ》さん。今日ね、久しぶりに髪結床《かみゆいどこ》へ行って、頭を刈って来ました」と右の手で黒いところを撫《な》で廻す。
「頭を」と云いながら羅宇《らお》の中ほどを祥瑞《しょんずい》の縁《ふち》でとんと叩《たた》いて灰を落す。
「あんまり奇麗《きれい》にもならんじゃないか」と真向《まむき》に帰ってから云う。
「奇麗にもならんじゃないかって、阿爺《おとっ》さん、こりゃ五分刈《ごぶがり》じゃないですぜ」
「じゃ何刈だい」
「分けるんです」
「分かっていないじゃないか」
「今に分かるようになるんです。真中が少し長いでしょう」
「そう云えば心持長いかな。廃《よ》せばいいのに、見っともない」
「見っともないですか」
「それにこれから夏向は熱苦しくって……」
「ところがいくら熱苦しくっても、こうして置かないと不都合なんです」
「なぜ」
「なぜでも不都合なんです」
「妙な奴だな」
「ハハハハ実はね、阿爺さん」
「うん」
「外交官の試験に及第してね」
「及第したか。そりゃそりゃ。そうか。そんなら早くそう云えば好いのに」
「まあ頭でも拵《こしら》えてからにしようと思って」
「頭なんぞはどうでも好いさ」
「ところが五分刈で外国へ行くと懲役人と間違えられるって云いますからね」
「外国へ――外国へ行くのかい。いつ」
「まあこの髪が延びて小野清三式になる時分でしょう」
「じゃ、まだ一ヵ月くらいはあるな」
「ええ、そのくらいはあります」
「一ヵ月あるならまあ安心だ。立つ前にゆっくり相談も出来るから」
「ええ時間はいくらでもあります。時間の方はいくらでもありますが、この洋服は今日限《こんにちかぎり》御返納に及びたいです」
「ハハハハいかんかい。よく似合うぜ」
「あなたが似合う似合うとおっしゃるから今日まで着たようなものの――至るところだぶだぶしていますぜ」
「そうかそれじゃ廃《よ》すがいい。また阿爺さんが着よう」
「ハハハハ驚いたなあ。それこそ御廃《およ》しなさい」
「廃しても好い。黒田にでもやるかな」
「黒田こそいい迷惑だ」
「そんなにおかしいかな」
「おかしかないが、身体《からだ》に合わないでさあ」
「そうか、それじゃやっぱりおかしいだろう」
「ええ、つまるところおかしいです」
「ハハハハ時に糸にも話したかい」
「試験の事ですか」
「ああ」
「まだ話さないです」
「まだ話さない。なぜ。――全体いつ分ったんだ」
「通知のあったのは二三日前ですがね。つい、忙しいもんだから、まだ誰にも話さない」
「御前は呑気《のんき》過ぎていかんよ」
「なに忘れやしません。大丈夫」
「ハハハハ忘れちゃ大変だ。まあもう、ちっと気をつけるがいい」
「ええこれから糸公に話してやろうと思ってね。――心配しているから。――及第の件とそれからこの頭の説明を」
「頭は好いが――全体どこへ行く事になったのかい。英吉利《イギリス》か、仏蘭西《フランス》か」
「その辺はまだ分らないです。何でも西洋は西洋でしょう」
「ハハハハ気楽なもんだ。まあどこへでも行くが好い」
「西洋なんか行きたくもないんだけれども――まあ順序だから仕方がない」
「うん、まあ勝手な所へ行くがいい」
「支那や朝鮮なら、故《もと》の通《とおり》の五分刈で、このだぶだぶの洋服を着て出掛けるですがね」
「西洋はやかましい。御前のような不作法《ぶさほう》ものには好い修業になって結構だ」
「ハハハハ西洋へ行くと堕落するだろうと思ってね」
「なぜ」
「西洋へ行くと人間を二《ふ》た通《とお》り拵《こしら》えて持っていないと不都合ですからね」
「二た通とは」
「不作法《ぶさほう》な裏と、奇麗な表と。厄介《やっかい》でさあ」
「日本でもそうじゃないか。文明の圧迫が烈《はげ》しいから上部《うわべ》を奇麗にしないと社会に住めなくなる」
「その代り生存競争も烈しくなるから、内部はますます不作法になりまさあ」
「ちょうどなんだな。裏と表と反対の方角に発達する訳になるな。これからの人間は生きながら八《や》つ裂《ざき》の刑を受けるようなものだ。苦しいだろう」
「今に人間が進化すると、神様の顔へ豚の睾丸《きんたま》をつけたような奴《やつ》ばかり出来て、それで落つきが取れるかも知れない。いやだな、そんな修業に出掛けるのは」
「いっそ廃《やめ》にするか。うちにいて親父《おやじ》の古洋服でも着て太平楽を並べている方が好いかも知れない。ハハハハ」
「ことに英吉利《イギリス》人は気に喰わない。一から十まで英国が模範であると云わんばかりの顔をして、何でもかでも我流《がりゅう》で押し通そうとするんですからね」
「だが英国紳士と云って近頃だいぶ評判がいいじゃないか」
「日英同盟だって、何もあんなに賞《ほ》めるにも当らない訳だ。弥次馬共が英国へ行った事もない癖に、旗ばかり押し立てて、まるで日本が無くなったようじゃありませんか」
「うん。どこの国でも表が表だけに発達すると、裏も裏相応に発達するだろうからな。――なに国ばかりじゃない個人でもそうだ」
「日本がえらくなって、英国の方で日本の真似でもするようでなくっちゃ駄目だ」
「御前が日本をえらくするさ。ハハハハ」
 宗近君は日本をえらくするとも、しないとも云わなかった。ふと手を伸《のば》すと更紗《さらさ》の結襟《ネクタイ》が白襟《カラ》の真中《まんなか》まで浮き出して結目《むすびめ》は横に捩《ねじ》れている。
「どうも、この襟飾《えりかざり》は滑《すべ》っていけない」と手探《てさぐり》に位地を正しながら、
「じゃ糸にちょっと話しましょう」と立ちかける。
「まあ御待ち、少し相談がある」
「何ですか」と立ち掛けた尻を卸《おろ》す機会《しお》に、準胡坐《じゅんあぐら》の姿勢を取る。
「実は今までは、御前の位地もまだきまっていなかったから、さほどにも云わなかったが……」
「嫁ですかね」
「そうさ。どうせ外国へ行くなら、行く前にきめるとか、結婚するとか、または連れて行くとか……」
「とても連れちゃ行かれませんよ。金が足りないから」
「連れて行かんでも好い。ちゃんと片をつけて、そうして置いて行くなら。留守中は私《わし》が大事に預かってやる」
「私《わたし》もそうしようと思ってるんです」
「どうだなそこで。気に入った婦人でもあるかな」
「甲野の妹を貰うつもりなんですがね。どうでしょう」
「藤尾《ふじお》かい。うん」
「駄目ですかね」
「なに駄目じゃない」
「外交官の女房にゃ、ああ云うんでないといけないです」
「そこでだて。実は甲野の親父《おやじ》が生きているうち、私と親父の間に、少しはその話もあったんだがな。御前は知らんかも知らんが」
「叔父さんは時計をやると云いました」
「あの金時計かい。藤尾が玩弄《おもちゃ》にするんで有名な」
「ええ、あの太古の時計です」
「ハハハハあれで針が回るかな。時計はそれとして、実は肝心《かんじん》の本人の事だが――この間甲野の母《おっか》さんが来た時、ついでだから話して見たんだがね」
「はあ、何とか云いましたか」
「まことに好い御縁だが、まだ御身分がきまって御出《おいで》でないから残念だけれども……」
「身分がきまらないと云うのは外交官の試験に及第しないと云う意味ですかね」
「まあ、そうだろう」
「だろうはちっと驚ろいたな」
「いや、あの女の云う事は、非常に能弁な代りによく意味が通じないで困る。滔々《とうとう》と述べる事は述べるが、ついに要点が分らない。要するに不経済な女だ」
 多少|苦々《にがにが》しい気色《けしき》に、煙管《きせる》でとんと膝頭《ひざ
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