と同様だ。それに来て見ると、砂が立つ、埃《ほこり》が立つ。雑沓《ざっとう》はする、物価《もの》は貴《たか》し、けっして住み好いとは思わない。……」
「住み好い所ではありませんね」
「これでも昔は親類も二三軒はあったんだが、長い間|音信不通《いんしんふつう》にしていたものだから、今では居所も分らない。不断はさほどにも思わないが、こうやって、半日でも寝ると考えるね。何となく心細い」
「なるほど」
「まあ御前が傍《そば》にいてくれるのが何よりの依頼《たより》だ」
「御役にも立ちませんで……」
「いえ、いろいろ親切にしてくれてまことにありがたい。忙《いそが》しいところを……」
「論文の方がないと、まだ閑《ひま》なんですが」
「論文。博士論文だね」
「ええ、まあそうです」
「いつ出すのかね」
 いつ出すのか分らなかった。早く出さなければならないと思う。こんな引っ掛りがなければ、もうよほど書けたろうにと思う。口では
「今一生懸命に書いてるところです」と云う。
 先生は襦袢《じゅばん》の袖《そで》から手を抜いて、素肌の懐《ふところ》に肘《ひじ》まで収めたまま、二三度肩をゆすって
「どうも、ぞくぞくする」と細長い髯《ひげ》を襟《えり》のなかに埋《うず》めた。
「御寝《おやす》みなさい。起きていらっしゃると毒ですから。私はもう御暇《おいとま》をします」
「なに、まあ御話し。もう小夜が帰る時分だから。寝たければ私《わたし》の方で御免蒙《ごめんこうむ》って寝る。それにまだ話も残っているから」
 先生は急に胸の中から、手を出して膝《ひざ》の上へ乗せて、双方を一度に打った。
「まあ緩《ゆっ》くりするが好い。今暮れたばかりだ」
 迷惑のうちにも小野さんはさすが気の毒に思った。これほどまでに自分を引き留めたいのは、ただ当年の可懐味《なつかしみ》や、一夕《いっせき》の無聊《ぶりょう》ではない。よくよく行く先が案じられて、亡き後の安心を片時《へんじ》も早く、脈の打つ手に握りたいからであろう。
 実は夕食《めし》もまだ食わない。いれば耳を傾けたくない話が出る。腰だけはとうから宙に浮いている。しかし先生の様子を見ると無理に洋袴《ズボン》の膝を伸《のば》す訳にもいかない。老人は病を力《つと》めて、わがために強いて元気をつけている。親しみやすき蒲団《ふとん》は片寄せられて、穴ばかりになった。温気《ぬくもり》は昔の事である。
「時に小夜の事だがね」と先生は洋灯《ランプ》の灯《ひ》を見ながら云う。五分心《ごぶじん》を蒲鉾形《かまぼこなり》に点《とも》る火屋《ほや》のなかは、壺《つぼ》に充《みつ》る油を、物言わず吸い上げて、穏かな※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》の舌が、暮れたばかりの春を、動かず守る。人|佗《わび》て淋《さみ》しき宵《よい》を、ただ一点の明《あか》きに償《つぐの》う。燈灯《ともしび》は希望《のぞみ》の影を招く。
「時に小夜の事だがね。知っての通りああ云う内気な性質《たち》ではあるし、今の女学生のようにハイカラな教育もないからとうてい気にもいるまいが、……」まで来て先生は洋灯から眼を放した。眼は小野さんの方に向う。何とか取り合わなければならない。
「いいえ――どうして――」と受けて、ちょっと句を切って見せたが、先生は依然として、こっちの顔から眸《ひとみ》を動かさない。その上口を開《き》かずに何だか待っている。
「気にいらんなんて――そんな事が――あるはずがないですが」とぽつぽつに答える。ようやくに納得《なっとく》した先生は先へ進む。
「あれも不憫《ふびん》だからね」
 小野さんは、そうだとも、そうでないとも云わなかった。手は膝《ひざ》の上にある。眼は手の上にある。
「私《わたし》がこうして、どうかこうかしているうちは好い。好いがこの通りの身体だから、いつ何時《なんどき》どんな事がないとも限らない。その時が困る。兼《かね》ての約束はあるし、御前も約束を反故《ほご》にするような軽薄な男ではないから、小夜の事は私がいない後《あと》でも世話はしてくれるだろうが……」
「そりゃ勿論《もちろん》です」と云わなければならない。
「そこは私も安心している。しかし女は気の狭いものでね。アハハハハ困るよ」
 何だか無理に笑ったように聞える。先生の顔は笑ったためにいよいよ淋《さみ》しくなった。
「そんなに御心配なさる事も要《い》らんでしょう」と覚束《おぼつか》なく云う。言葉の腰がふらふらしている。
「私はいいが、小夜がさ」
 小野さんは右の手で洋服の膝を摩《こす》り始めた。しばらくは二人とも無言である。心なき灯火《ともしび》が双方を半分《はんぶ》ずつ照らす。
「御前の方にもいろいろな都合はあるだろう。しかし都合はいくら立ったって片づくものじゃない」
「そうでも無いです。もう少しです」
「だって卒業して二年になるじゃないか」
「ええ。しかしもう少しの間は……」
「少しって、いつまでの事かい。そこが判然《はっきり》していれば待っても好いさ。小夜にも私からよく話して置く。しかしただ少しでは困る。いくら親でも子に対して幾分か責任があるから。――少しって云うのは博士論文でも書き上げてしまうまでかい」
「ええ、まずそうです」
「だいぶ久しく書いているようだが、まあいつごろ済むつもりかね。大体《おおよそ》」
「なるべく早く書いてしまおうと思って骨を折っているんですが。何分問題が大きいものですから」
「しかし大体の見当は着くだろう」
「もう少しです」
「来月くらいかい」
「そう早くは……」
「来々月《さらいげつ》はどうだね」
「どうも……」
「じゃ、結婚をしてからにしたら好かろう、結婚をしたから論文が書けなくなったと云う理由も出て来そうにない」
「ですが、責任が重くなるから」
「いいじゃないか、今まで通りに働いてさえいれば。当分の間、我々は経済上、君の世話にならんでもいいから」
 小野さんは返事のしようがなかった。
「収入は今どのくらいあるのかね」
「わずかです」
「わずかとは」
「みんなで六十円ばかりです。一人がようようです」
「下宿をして?」
「ええ」
「そりゃ馬鹿気《ばかげ》ている。一人で六十円使うのはもったいない。家を持っても楽に暮せる」
 小野さんはまた返事のしようがなかった。
 東京は物価《もの》が高いと云いながら、東京と京都の区別を知らない。鳴海絞《なるみしぼり》の兵児帯《へこおび》を締めて芋粥《いもがい》に寒さを凌《しの》いだ時代と、大学を卒業して相当の尊敬を衣帽《いぼう》の末に払わねばならぬ今の境遇とを比較する事を知らない。書物は学者に取って命から二代目である。按摩《あんま》の杖と同じく、無くっては世渡りが出来ぬほどに大切な道具である。その書物は机の上へ湧《わ》いてでも出る事か、中には人の驚くような奮発をして集めている。先生はそんな費用が、どれくらいかかるかまるで一切空《いっさいくう》である。したがって、おいそれと簡単な返事が出来ない。
 小野さんは何を思ったか、左手を畳へつかえると、右を伸《のば》して洋灯《ランプ》の心《しん》をぱっと出した。六畳の小地球が急に東の方へ廻転したように、一度は明るくなる。先生の世界観が瞬《またたき》と共に変るように明るくなる。小野さんはまだ螺旋《ねじ》から手を放さない。
「もう好い。そのくらいで好い。あんまり出すと危ない」と先生が云う。
 小野さんは手を放した。手を引くときに、自分でカフスの奥を腕まで覗《のぞ》いて見る。やがて背広《せびろ》の表隠袋《おもてかくし》から、真白な手巾《ハンケチ》を撮《つま》み出して丁寧に指頭《ゆびさき》の油を拭き取った。
「少し灯《ひ》が曲っているから……」と小野さんは拭き取った指頭を鼻の先へ持って来てふんふんと二三度|嗅《か》いだ。
「あの婆さんが切るといつでも曲る」と先生は股《また》の開いた灯を見ながら云う。
「時にあの婆さんはどうです、御間に合いますか」
「そう、まだ礼も云わなかったね。だんだん御手数《おてすう》を掛けて……」
「いいえ。実は年を取ってるから働らけるかと思ったんですが」
「まあ、あれで結構だ。だんだん慣《な》れてくる様子だから」
「そうですか、そりゃ好い按排《あんばい》でした。実はどうかと思って心配していたんですが。その代り人間はたしかだそうです。浅井が受合って行ったんですから」
「そうかい。時に浅井と云えば、どうしたい。まだ帰らないかい」
「もう帰る時分ですが。ことに因《よ》ると今日くらいの汽車で帰って来るかも知れません」
「一昨《おととい》かの手紙には、二三日中に帰るとあったよ」
「はあ、そうでしたか」と云ったぎり、小野さんは捩《ね》じ上げた五分心《ごぶじん》の頭を無心に眺《なが》めている。浅井の帰京と五分心の関係を見極《みきわ》めんと思索するごとくに眸子《ぼうし》は一点に集った。
「先生」と云う。顔は先生の方へ向け易《か》えた。例になく口の角《かど》にいささかの決心を齎《もたら》している。
「何だい」
「今の御話ですね」
「うん」
「もう二三日待って下さいませんか」
「もう二三日」
「つまり要領を得た御返事をする前にいろいろ考えて見たいですから」
「そりゃ好いとも。三日でも四日でも、――一週間でも好い。事が判然《はっきり》さえすれば安心して待っている。じゃ小夜にもそう話して置こう」
「ええ、どうか」と云いながら恩賜の時計を出す。夏に向う永い日影が落ちてから、夜《よ》の針は疾《と》く回るらしい。
「じゃ、今夜は失礼します」
「まあ好いじゃないか。もう帰って来る」
「また、すぐ来ますから」

「それでは――御疎怱《おそうそう》であった」
 小野さんはすっきりと立つ。先生は洋灯《ランプ》を執《と》る。
「もう、どうぞ。分ります」と云いつつ玄関へ出る。
「やあ、月夜だね」と洋灯を肩の高さに支えた先生がいう。
「ええ穏《おだやか》な晩です」と小野さんは靴の紐《ひも》を締めつつ格子《こうし》から往来を見る。
「京都はなお穏だよ」
 屈《こご》んでいた小野さんはようやく沓脱《くつぬぎ》に立った。格子が明《あ》く。華奢《きゃしゃ》な体躯《からだ》が半分ばかり往来へ出る。
「清三」と先生は洋灯の影から呼び留めた。
「ええ」と小野さんは月のさす方から振り向いた。
「なに別段用じゃない。――こうして東京へ出掛けて来たのは、小夜の事を早く片づけてしまいたいからだと思ってくれ。分ったろうな」と云う。
 小野さんは恭《うやうや》しく帽子を脱ぐ。先生の影は洋灯と共に消えた。
 外は朧《おぼろ》である。半《なか》ば世を照らし、半ば世を鎖《とざ》す光が空に懸《かか》る。空は高きがごとく低きがごとく据《すわ》らぬ腰を、更《ふ》けぬ宵《よい》に浮かしている。懸るものはなおさらふわふわする。丸い縁《ふち》に黄を帯びた輪をぼんやり膨《ふく》らまして輪廓も確《たしか》でない。黄な帯は外囲《そとい》に近く色を失って、黒ずんだ藍《あい》のなかに煮染出《にじみだ》す。流れれば月も消えそうに見える。月は空に、人は地に紛《まぎ》れやすい晩である。
 小野さんの靴は、湿《しめ》っぽい光を憚《はば》かるごとく、地に落す踵《かかと》を洋袴《ズボン》の裾《すそ》に隠して、小路《こうじ》を蕎麦屋《そばや》の行灯《あんどん》まで抜け出して左へ折れた。往来は人の香《におい》がする。地に※[#「てへん+施のつくり」、第3水準1−84−74]《し》く影は長くはない。丸まって動いて来る。こんもりと揺《ゆ》れて去る。下駄の音は朧《おぼろ》に包まれて、霜《しも》のようには冴《さ》えぬ。撫《な》でて通る電信柱に白い模様が見えた。すかす眸《ひとみ》を不審と据《す》えると白墨の相々傘《あいあいがさ》が映《うつ》る。それほどの浅い夜を、昼から引っ越して来た霞《かすみ》が立て籠《こ》める。行く人も来る人も何となく要領を得ぬ。逃れば靄《もや》のなか、出《いず》れば月の世界である。小野さんは夢のように歩《ほ》を移して来た。※[#「足へん
前へ 次へ
全49ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング