》の黒い穴が、椽《えん》の下へ抜けているのを眺《なが》めながら取次をおとなしく待つ。返事はやがてした。うん[#「うん」に傍点]と云うのか、ああ[#「ああ」に傍点]と云うのかはい[#「はい」に傍点]と云うのか、さらに要領を得ぬ声である。小野さんはやはり菱形の黒い穴を覗《のぞ》きながら取次を待っている。やがて障子《しょうじ》の向《むこう》でずしんと誰か跳《は》ね起きた様子である。怪しい普請《ふしん》と見えて根太《ねだ》の鳴る音が手に取るように聞える。例の壁紙模様の襖《ふすま》が開《あ》く。二畳の玄関へ出て来たなと思う間《ま》もなく、薄暗い障子の影に、肉の落ちた孤堂先生の顔が髯《ひげ》もろともに現われた。
平生からあまり丈夫には見えない。骨が細く、躯《からだ》が細く、顔はことさら細く出来上ったうえに、取る年は争われぬ雨と風と苦労とを吹きつけて、辛《から》い浮世に、辛くも取り留めた心さえ細くなるばかりである。今日は一層《ひとしお》顔色が悪い。得意の髯さえも尋常には見えぬ。黒い隙間《すきま》を白いのが埋《うず》めて、白い隙間を風が通る。
古《いにしえ》の人は顎《あご》の下まで影が薄い。一本ずつ吟味して見ると先生の髯は一本ごとにひょろひょろしている。小野さんは鄭寧《ていねい》に帽を脱いで、無言のまま挨拶《あいさつ》をする。英吉利刈《イギリスがり》の新式な頭は、眇然《びょうぜん》たる「過去」の前に落ちた。
径《さしわたし》何十尺の円を描《えが》いて、周囲に鉄の格子を嵌《は》めた箱をいくつとなくさげる。運命の玩弄児《がんろうじ》はわれ先にとこの箱へ這入《はい》る。円は廻り出す。この箱にいるものが青空へ近く昇る時、あの箱にいるものは、すべてを吸い尽す大地へそろりそろりと落ちて行く。観覧車を発明したものは皮肉な哲学者である。
英吉利式《イギリスしき》の頭は、この箱の中でこれから雲へ昇ろうとする。心細い髯《ひげ》に、世を佗《わ》び古りた記念のためと、大事に胡麻塩《ごましお》を振り懸けている先生は、あの箱の中でこれから暗い所へ落ちつこうとする。片々《かたかた》が一尺昇れば片々は一尺下がるように運命は出来上っている。
昇るものは、昇りつつある自覚を抱いて、降《くだ》りつつ夜に行くものの前に鄭寧《ていねい》な頭《こうべ》を惜気もなく下げた。これを神の作れるアイロニーと云う。
「やあ、これは」と先生は機嫌が好い。運命の車で降りるものが、昇るものに出合うと自然に機嫌がよくなる。
「さあ御上り」とたちまち座敷へ取って返す。小野さんは靴の紐《ひも》を解く。解き終らぬ先に先生はまた出てくる。
「さあ御上り」
座敷の真中に、昼を厭《いと》わず延べた床《とこ》を、壁際へ押しやったあとに、新調の座布団が敷いてある。
「どうか、なさいましたか」
「何だか、今朝から心持が悪くってね。それでも朝のうちは我慢していたが、午《ひる》からとうとう寝てしまった。今ちょうどうとうとしていたところへ君が来たので、待たして御気の毒だった」
「いえ、今格子を開《あ》けたばかりです」
「そうかい。何でも誰か来たようだから驚いて出て見た」
「そうですか、それは御邪魔をしました。寝ていらっしゃれば好かったですね」
「なに大した事はないから。――それに小夜も婆さんもいないものだから」
「どこかへ……」
「ちょっと風呂に行った。買物かたがた」
床の抜殻は、こんもり高く、這《は》い出した穴を障子に向けている。影になった方が、薄暗く夜着の模様を暈《ぼか》す上に、投げ懸けた羽織の裏が、乏しき光線《ひかり》をきらきらと聚《あつ》める。裏は鼠《ねずみ》の甲斐絹《かいき》である。
「少しぞくぞくするようだ。羽織でも着よう」と先生は立ち上がる。
「寝ていらしったら好いでしょう」
「いや少し起きて見よう」
「何ですかね」
「風邪《かぜ》でもないようだが、――なに大した事もあるまい」
「昨夕《ゆうべ》御出《おで》になったのが悪かったですかね」
「いえ、なに。――時に昨夕は大きに御厄介」
「いいえ」
「小夜も大変喜んで。御蔭《おかげ》で好い保養をした」
「もう少し閑《ひま》だと、方々へ御供をする事が出来るんですが……」
「忙がしいだろうからね。いや忙がしいのは結構だ」
「どうも御気の毒で……」
「いや、そんな心配はちっとも要《い》らない。君の忙がしいのは、つまり我々の幸福《しあわせ》なんだから」
小野さんは黙った。部屋はしだいに暗くなる。
「時に飯は食ったかね」と先生が聞く。
「ええ」
「食った?――食わなければ御上り。何にもないが茶漬ならあるだろう」とふらふらと立ち懸《か》ける。締め切った障子に黒い長い影が出来る。
「先生、もう好いんです。飯は済まして来たんです」
「本当かい。遠慮しちゃいかん」
「遠慮しやしません」
黒い影は折れて故《もと》のごとく低くなる。えがらっぽい[#「えがらっぽい」に傍点]咳が二つ三つ出る。
「咳が出ますか」
「から――からっ咳が出て……」と云い懸《か》ける途端《とたん》にまた二つ三つ込み上げる。小野さんは憮然《ぶぜん》として咳の終るを待つ。
「横になって温《あった》まっていらしったら好いでしょう。冷えると毒です」
「いえ、もう大丈夫。出だすと一時《いちじ》いけないんだがね。――年を取ると意気地がなくなって――何でも若いうちの事だよ」
若いうちの事だとは今まで毎度聞いた言葉である。しかし孤堂先生の口から聞いたのは今が始めてである。骨ばかりこの世に取り残されたかと思う人の、疎《まば》らな髯《ひげ》を風塵《ふうじん》に託して、残喘《ざんせん》に一昔と二昔を、互違《たがいちがい》に呼吸する口から聞いたのは、少なくとも今が始めてである。子《ね》の鐘は陰《いん》に響いてぼうんと鳴る。薄暗い部屋のなかで、薄暗い人からこの言葉を聞いた小野さんは、つくづく若いうちの事だと思った。若いうちは二度とないと思った。若いうち旨《うま》くやらないと生涯《しょうがい》の損だと思った。
生涯の損をしてこの先生のように老朽した時の心持は定めて淋《さび》しかろう。よくよくつまらないだろう。しかし恩のある人に済まぬ不義理をして死ぬまで寝醒《ねざめ》が悪いのは、損をした昔を思い出すより欝陶《うっとう》しいかも知れぬ。いずれにしても若いうちは二度とは来ない。二度と来ない若いうちにきめた事は生涯きまってしまう。生涯きまってしまう事を、自分は今どっちかにきめなければならぬ。今日藤尾に逢う前に先生の所へ来たら、あの嘘を当分見合せたかも知れぬ。しかし嘘を吐《つ》いてしまった今となって見ると致し方はない。将来の運命は藤尾に任せたと云って差《さ》し支《つかえ》ない。――小野さんは心中でこう云う言訳をした。
「東京は変ったね」と先生が云う。
「烈《はげ》しい所で、毎日変っています」
「恐ろしいくらいだ。昨夜《ゆうべ》もだいぶ驚いたよ」
「随分人が出ましたから」
「出たねえ。あれでも知った人には滅多《めった》に逢《あ》わないだろうね」
「そうですね」と瞹眛《あいまい》に受ける。
「逢うかね」
小野さんは「まあ……」と濁しかけたが「まあ、逢わない方ですね」と思い切ってしまった。
「逢わない。なるほど広い所に違ない」と先生は大いに感心している。なんだか田舎染《いなかじ》みて見える。小野さんは光沢《つや》の悪い先生の顔から眼を放して、自分の膝元を眺めた。カフスは真白である。七宝《しっぽう》の夫婦釦《めおとボタン》は滑《なめらか》な淡紅色《ときいろ》を緑の上に浮かして、華奢《きゃしゃ》な金縁のなかに暖かく包まれている。背広《せびろ》の地は品《ひん》の好い英吉利織《イギリスおり》である。自己をまのあたりに物色した時、小野さんは自己の住むべき世界を卒然と自覚した。先生に釣り込まれそうな際《きわ》どいところで急に忘れ物を思い出したような気分になる。先生には無論分らぬ。
「いっしょにあるいたのも久しぶりだね。今年でちょうど五年目になるかい」とさも可懐《なつかし》げに話しかける。
「ええ五年目です」
「五年目でも、十年目でも、こうして一つ所に住むようになれば結構さ。――小夜も喜んでいる」と後から継《つ》ぎ足したように一句を付け添えた。小野さんは早速《さそく》の返事を忘れて、暗い部屋のなかに竦《すくま》るような気がした。
「さっき御嬢さんが御出《おいで》でした」と仕方がないから渡し込む。
「ああ、――なに急ぐ事でも無かったんだが、もしや暇があったらいっしょに連れて行って買物をして貰おうと思ってね」
「あいにく出掛《でが》けだったものですから」
「そうだってね。飛んだ御邪魔をしたろう。どこぞ急用でもあったのかい」
「いえ――急用でもなかったんですが」と相手は少々言い淀《よど》む。先生は追窮しない。
「はあ、そうかい。そりゃあ」と漠々《ばくばく》たる挨拶《あいさつ》をした。挨拶が漠々たると共に、部屋のなかも朦朧《もうろう》と取締《とりしまり》がなくなって来る。今宵は月だ。月だが、まだ間《ま》がある。のに日は落ちた。床《とこ》は一間を申訳のために濃い藍《あい》の砂壁に塗り立てた奥には、先生が秘蔵の義董《ぎとう》の幅《ふく》が掛かっていた。唐代の衣冠《いかん》に蹣跚《まんさん》の履《くつ》を危うく踏んで、だらしなく腕に巻きつけた長い袖を、童子の肩に凭《もた》した酔態は、この家の淋《さび》しさに似ず、春王《はるおう》の四月に叶《かな》う楽天家である。仰せのごとく額をかくす冠《かんむり》の、黒い色が著るしく目についたのは今先の事であったに、ふと見ると、纓《ひも》か飾か、紋切形に左右に流す幅広の絹さえ、ぼんやりと近づく宵《よい》を迎えて、来る夜に紛《まぎ》れ込もうとする。先生も自分もぐずぐずすると一つ穴へはまって、影のように消えて行きそうだ。
「先生、御頼《おたのみ》の洋灯《ランプ》の台を買って来ました」
「それはありがたい。どれ」
小野さんは薄暗いなかを玄関へ出て、台と屑籠《くずかご》を持ってくる。
「はあ――何だか暗くってよく見えない。灯火《あかり》を点《つ》けてから緩《ゆっ》くり拝見しよう」
「私が点《つ》けましょう。洋灯《ランプ》はどこにありますか」
「気の毒だね。もう帰って来る時分だが。じゃ椽側へ出ると右の戸袋のなかにあるから頼もう。掃除はもうしてあるはずだ」
薄暗い影が一つ立って、障子《しょうじ》をすうと明ける。残る影はひそかに手を拱《こまぬ》いて動かぬほどを、夜は襲《おそ》って来る。六畳の座敷は淋《さみ》しい人を陰気に封じ込めた。ごほんごほんと咳をせく。
やがて椽《えん》の片隅で擦《す》る燐寸《マッチ》の音と共に、咳はやんだ。明るいものは室《へや》のなかに動いて来る。小野さんは洋袴《ズボン》の膝を折って、五分心《ごぶじん》を新らしい台の上に載《の》せる。
「ちょうどよく合うね。据《すわ》りがいい。紫檀《したん》かい」
「模擬《まがい》でしょう」
「模擬でも立派なものだ。代は?」
「何ようござんす」
「よくはない。いくらかね」
「両方で四円少しです」
「四円。なるほど東京は物が高いね。――少しばかりの恩給でやって行くには京都の方が遥《はる》かに好いようだ」
二三年前と違って、先生は些額《さがく》の恩給とわずかな貯蓄から上がる利子とで生活して行かねばならぬ。小野さんの世話をした時とはだいぶ違う。事に依れば小野さんの方から幾分か貢《みつ》いで貰いたいようにも見える。小野さんは畏《かしこ》まって控えている。
「なに小夜さえなければ、京都にいても差《さ》し支《つかえ》ないんだが、若い娘を持つとなかなか心配なもので……」と途中でちょっと休んで見せる。小野さんは畏まったまま応じなかった。
「私《わたし》などはどこの果《はて》で死のうが同じ事だが、後に残った小夜がたった一人で可哀想《かわいそう》だからこの年になって、わざわざ東京まで出掛けて来たのさ。――いかな故郷でももう出てから二十年にもなる。知合も交際《つきあい》もない。まるで他国
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