ればならぬ。
「オクテヴィヤの事を根堀り葉堀り、使のものに尋ねるんです。その尋ね方が、詰《なじ》り方が、性格を活動させているから面白い。オクテヴィヤは自分のように背《せい》が高いかの、髪の毛はどんな色だの、顔が丸いかの、声が低いかの、年はいくつだのと、どこまでも使者を追窮《ついきゅう》します。……」
「全体追窮する人の年はいくつなんです」
「クレオパトラは三十ばかりでしょう」
「それじゃ私に似てだいぶ御婆《おばあ》さんね」
 女は首を傾けてホホと笑った。男は怪しき靨《えくぼ》のなかに捲《ま》き込まれたままちょっと途方に暮れている。肯定すれば偽《いつわ》りになる。ただ否定するのは、あまりに平凡である。皓《しろ》い歯に交る一筋の金の耀《かがや》いてまた消えんとする間際《まぎわ》まで、男は何の返事も出なかった。女の年は二十四である。小野さんは、自分と三つ違である事を疾《と》うから知っている。
 美しき女の二十《はたち》を越えて夫《おっと》なく、空《むな》しく一二三を数えて、二十四の今日《きょう》まで嫁《とつ》がぬは不思議である。春院《しゅんいん》いたずらに更《ふ》けて、花影《かえい》欄《おばしま》にたけなわなるを、遅日《ちじつ》早く尽きんとする風情《ふぜい》と見て、琴《こと》を抱《いだ》いて恨《うら》み顔なるは、嫁ぎ後《おく》れたる世の常の女の習《ならい》なるに、麈尾《ほっす》に払う折々の空音《そらね》に、琵琶《びわ》らしき響を琴柱《ことじ》に聴いて、本来ならぬ音色《ねいろ》を興あり気に楽しむはいよいよ不思議である。仔細《しさい》は固《もと》より分らぬ。この男とこの女の、互に語る言葉の影から、時々に覗《のぞ》き込んで、いらざる臆測《おくそく》に、うやむやなる恋の八卦《はっけ》をひそかに占《うら》なうばかりである。
「年を取ると嫉妬《しっと》が増して来るものでしょうか」と女は改たまって、小野さんに聞いた。
 小野さんはまた面喰《めんくら》う。詩人は人間を知らねばならん。女の質問には当然答うべき義務がある。けれども知らぬ事は答えられる訳《わけ》がない。中年の人の嫉妬を見た事のない男は、いくら詩人でも文士でも致し方がない。小野さんは文字に堪能《かんのう》なる文学者である。
「そうですね。やっぱり人に因《よ》るでしょう」
 角《かど》を立てない代りに挨拶《あいさつ》は濁っている。それで済ます女ではない。
「私がそんな御婆さんになったら――今でも御婆さんでしたっけね。ホホホ――しかしそのくらいな年になったら、どうでしょう」
「あなたが――あなたに嫉妬《しっと》なんて、そんなものは、今だって……」
「有りますよ」
 女の声は静かなる春風《はるかぜ》をひやりと斬《き》った。詩の国に遊んでいた男は、急に足を外《はず》して下界に落ちた。落ちて見ればただの人である。相手は寄りつけぬ高い崖《がけ》の上から、こちらを見下《みおろ》している。自分をこんな所に蹴落《けおと》したのは誰だと考える暇もない。
「清姫《きよひめ》が蛇《じゃ》になったのは何歳《いくつ》でしょう」
「左様《さよう》、やっぱり十代にしないと芝居になりませんね。おおかた十八九でしょう」
「安珍《あんちん》は」
「安珍は二十五ぐらいがよくはないでしょうか」
「小野さん」
「ええ」
「あなたは御何歳《おいくつ》でしたかね」
「私《わたし》ですか――私はと……」
「考えないと分らないんですか」
「いえ、なに――たしか甲野君と御同《おな》い年《どし》でした」
「そうそう兄と御同い年ですね。しかし兄の方がよっぽど老《ふ》けて見えますよ」
「なに、そうでも有りません」
「本当よ」
「何か奢《おご》りましょうか」
「ええ、奢ってちょうだい。しかし、あなたのは顔が若いのじゃない。気が若いんですよ」
「そんなに見えますか」
「まるで坊っちゃんのようですよ」
「可愛想《かわいそう》に」
「可愛らしいんですよ」
 女の二十四は男の三十にあたる。理も知らぬ、非も知らぬ、世の中がなぜ廻転して、なぜ落ちつくかは無論知らぬ。大いなる古今の舞台の極《きわ》まりなく発展するうちに、自己はいかなる地位を占めて、いかなる役割を演じつつあるかは固《もと》より知らぬ。ただ口だけは巧者である。天下を相手にする事も、国家を向うへ廻す事も、一団の群衆を眼前に、事を処する事も、女には出来ぬ。女はただ一人を相手にする芸当を心得ている。一人と一人と戦う時、勝つものは必《かなら》ず女である。男は必ず負ける。具象《ぐしょう》の籠《かご》の中に飼《か》われて、個体の粟《あわ》を喙《ついば》んでは嬉しげに羽搏《はばたき》するものは女である。籠の中の小天地で女と鳴く音《ね》を競うものは必ず斃《たお》れる。小野さんは詩人である。詩人だから、この籠の中に半分首を突き込んでいる。小野さんはみごとに鳴き損《そこ》ねた。
「可愛らしいんですよ。ちょうど安珍《あんちん》のようなの」
「安珍は苛《ひど》い」
 許せと云わぬばかりに、今度は受け留《と》めた。
「御不服なの」と女は眼元だけで笑う。
「だって……」
「だって、何が御厭《おいや》なの」
「私《わたし》は安珍のように逃げやしません」
 これを逃げ損ねの受太刀《うけだち》と云う。坊っちゃんは機《き》を見て奇麗に引き上げる事を知らぬ。
「ホホホ私は清姫のように追《お》っ懸《か》けますよ」
 男は黙っている。
「蛇《じゃ》になるには、少し年が老《ふ》け過ぎていますかしら」
 時ならぬ春の稲妻《いなずま》は、女を出でて男の胸をするりと透《とお》した。色は紫である。
「藤尾《ふじお》さん」
「何です」
 呼んだ男と呼ばれた女は、面と向って対座している。六畳の座敷は緑《みど》り濃き植込に隔《へだ》てられて、往来に鳴る車の響さえ幽《かす》かである。寂寞《せきばく》たる浮世のうちに、ただ二人のみ、生きている。茶縁《ちゃべり》の畳を境に、二尺を隔《へだ》てて互に顔を見合した時、社会は彼らの傍《かたえ》を遠く立ち退《の》いた。救世軍はこの時太鼓を敲《たた》いて市中を練り歩《あ》るいている。病院では腹膜炎で患者が虫の気息《いき》を引き取ろうとしている。露西亜《ロシア》では虚無党《きょむとう》が爆裂弾を投げている。停車場《ステーション》では掏摸《すり》が捕《つら》まっている。火事がある。赤子《あかご》が生れかかっている。練兵場《れんぺいば》で新兵が叱られている。身を投げている。人を殺している。藤尾の兄《あに》さんと宗近君は叡山《えいざん》に登っている。
 花の香《か》さえ重きに過ぐる深き巷《ちまた》に、呼び交《か》わしたる男と女の姿が、死の底に滅《め》り込む春の影の上に、明らかに躍《おど》りあがる。宇宙は二人の宇宙である。脈々三千条の血管を越す、若き血潮の、寄せ来《きた》る心臓の扉《とびら》は、恋と開き恋と閉じて、動かざる男女《なんにょ》を、躍然と大空裏《たいくうり》に描《えが》き出している。二人の運命はこの危うき刹那《せつな》に定《さだ》まる。東か西か、微塵《みじん》だに体《たい》を動かせばそれぎりである。呼ぶはただごとではない、呼ばれるのもただごとではない。生死以上の難関を互の間に控えて、羃然《べきぜん》たる爆発物が抛《な》げ出されるか、抛げ出すか、動かざる二人の身体《からだ》は二塊《ふたかたまり》の※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》である。
「御帰りいっ」と云う声が玄関に響くと、砂利《じゃり》を軋《きし》る車輪がはたと行き留まった。襖《ふすま》を開ける音がする。小走りに廊下を伝う足音がする。張り詰めた二人の姿勢は崩《くず》れた。
「母が帰って来たのです」と女は坐《すわ》ったまま、何気なく云う。
「ああ、そうですか」と男も何気なく答える。心を判然《はっき》と外に露《あら》わさぬうちは罪にはならん。取り返しのつく謎《なぞ》は、法庭《ほうてい》の証拠としては薄弱である。何気なく、もてなしている二人は、互に何気のあった事を黙許しながら、何気なく安心している。天下は太平である。何人《なんびと》も後指《うしろゆび》を指《さ》す事は出来ぬ。出来れば向うが悪《わ》るい。天下はあくまでも太平である。
「御母《おっか》さんは、どちらへか行らしったんですか」
「ええ、ちょっと買物に出掛けました」
「だいぶ御邪魔をしました」と立ち懸《か》ける前に居住《いずまい》をちょっと繕《つく》ろい直す。洋袴《ズボン》の襞《ひだ》の崩れるのを気にして、常は出来るだけ楽に坐る男である。いざと云えば、突《つ》っかい棒《ぼう》に、尻を挙げるための、膝頭《ひざがしら》に揃《そろ》えた両手は、雪のようなカフスに甲《こう》まで蔽《おお》われて、くすんだ鼠縞《ねずみじま》の袖の下から、七宝《しっぽう》の夫婦釦《めおとボタン》が、きらりと顔を出している。
「まあ御緩《ごゆっ》くりなさい。母が帰っても別に用事はないんですから」と女は帰った人を迎える気色《けしき》もない。男はもとより尻を上げるのは厭《いや》である。
「しかし」と云いながら、隠袋《かくし》の中を捜《さ》ぐって、太い巻煙草《まきたばこ》を一本取り出した。煙草の煙は大抵のものを紛《まぎ》らす。いわんやこれは金の吸口の着いた埃及産《エジプトさん》である。輪に吹き、山に吹き、雲に吹く濃き色のうちには、立ち掛けた腰を据《す》え直して、クレオパトラと自分の間隔を少しでも詰《つづ》める便《たより》が出来んとも限らぬ。
 薄い煙りの、黒い口髭《くちひげ》を越して、ゆたかに流れ出した時、クレオパトラは果然、
「まあ、御坐り遊ばせ」と叮嚀《ていねい》な命令を下した。
 男は無言のまま再び膝《ひざ》を崩《くず》す。御互に春の日は永い。
「近頃は女ばかりで淋《さむ》しくっていけません」
「甲野君はいつ頃《ごろ》御帰りですか」
「いつ頃帰りますか、ちっとも分りません」
「御音信《おたより》が有りますか」
「いいえ」
「時候が好いから京都は面白いでしょう」
「あなたもいっしょに御出《おいで》になればよかったのに」
「私《わたし》は……」と小野さんは後を暈《ぼ》かしてしまう。
「なぜ行らっしゃらなかったの」
「別に訳はないんです」
「だって、古い御馴染《おなじみ》じゃありませんか」
「え?」
 小野さんは、煙草の灰を畳の上に無遠慮に落す。「え?」と云う時、不要意に手が動いたのである。
「京都には長い事、いらしったんじゃありませんか」
「それで御馴染なんですか」
「ええ」
「あんまり古い馴染だから、もう行く気にならんのです」
「随分不人情ね」
「なに、そんな事はないです」と小野さんは比較的|真面目《まじめ》になって、埃及煙草《エジプトたばこ》を肺の中まで吸い込んだ。
「藤尾、藤尾」と向うの座敷で呼ぶ声がする。
「御母《おっか》さんでしょう」と小野さんが聞く。
「ええ」
「私《わたし》はもう帰ります」
「なぜです」
「でも何か御用が御在《おあ》りになるんでしょう」
「あったって構わないじゃありませんか。先生じゃありませんか。先生が教えに来ているんだから、誰が帰ったって構わないじゃありませんか」
「しかしあんまり教えないんだから」
「教わっていますとも、これだけ教わっていればたくさんですわ」
「そうでしょうか」
「クレオパトラや、何かたくさん教わってるじゃありませんか」
「クレオパトラぐらいで好ければ、いくらでもあります」
「藤尾、藤尾」と御母さんはしきりに呼ぶ。
「失礼ですがちょっと御免蒙《ごめんこうむ》ります。――なにまだ伺いたい事があるから待っていて下さい」
 藤尾は立った。男は六畳の座敷に取り残される。平床《ひらどこ》に据えた古薩摩《こさつま》の香炉《こうろ》に、いつ焼《た》き残したる煙の迹《あと》か、こぼれた灰の、灰のままに崩《くず》れもせず、藤尾の部屋は昨日《きのう》も今日も静かである。敷き棄てた八反《はったん》の座布団《ざぶとん》に、主《ぬし》を待つ間《ま》の温気《ぬくもり》は、軽く払う春風に、ひっ
前へ 次へ
全49ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング