せ》いては事を仕損ずる。小野さんはおとなしくして事件の発展を、自《おのずか》ら開くべき優曇華《うどんげ》の未来に待ち暮していた。小野さんは進んで仕掛けるような相撲《すもう》をとらぬ、またとれぬ男である。
 天地はこの有望の青年に対して悠久《ゆうきゅう》であった。春は九十日の東風《とうふう》を限りなく得意の額《ひたい》に吹くように思われた。小野さんは優《やさ》しい、物に逆《さから》わぬ、気の長い男であった。――ところへ過去が押し寄せて来た。二十七年の長い夢と背《そびら》を向けて、西の国へさらりと流したはずの昔から、一滴の墨汁《ぼくじゅう》にも較《くら》ぶべきほどの暗い小《ちさ》い点が、明かなる都まで押し寄せて来た。押されるものは出る気がなくても前へのめりたがる。おとなしく時機を待つ覚悟を気長にきめた詩人も未来を急がねばならぬ。黒い点は頭の上にぴたりと留《とどま》っている。仰ぐとぐるぐる旋転《せんてん》しそうに見える。ぱっと散れば白雨《ゆうだち》が一度にくる。小野さんは首を縮めて馳《か》け出したくなる。
 四五日は孤堂《こどう》先生の世話やら用事やらで甲野《こうの》の方へ足を向ける事も出来なかった。昨夜《ゆうべ》は出来ぬ工夫を無理にして、旧師への義理立てに、先生と小夜子《さよこ》を博覧会へ案内した。恩は昔受けても今受けても恩である。恩を忘れるような不人情な詩人ではない。一飯漂母《いっぱんひょうぼ》を徳とすと云う故事を孤堂先生から教わった事さえある。先生のためならばこれから先どこまでも力になるつもりでいる。人の難儀を救うのは美くしい詩人の義務である。この義務を果して、濃《こま》やかな人情を、得意の現在に、わが歴史の一部として、思出の詩料に残すのは温厚なる小野さんにもっとも恰好《かっこう》な優しい振舞である。ただ何事も金がなくては出来ぬ。金は藤尾と結婚せねば出来ぬ。結婚が一日早く成立すれば、一日早く孤堂先生の世話が思うように出来る。――小野さんは机の前でこう云う論理を発明した。
 小夜子を捨てるためではない、孤堂先生の世話が出来るために、早く藤尾と結婚してしまわなければならぬ。――小野さんは自分の考《かんがえ》に間違はないはずだと思う。人が聞けば立派に弁解が立つと思う。小野さんは頭脳の明暸《めいりょう》な男である。
 ここまで考えた小野さんはやがて机の上に置いてある、茶の表紙に豊かな金文字を入れた厚い書物を開《あ》けた。中からヌーボー式に青い柳を染めて赤瓦の屋根が少し見える栞《しおり》があらわれる。小野さんは左の手に栞を滑《すべ》らして、細かい活字を金縁の眼鏡《めがね》の奥から読み始める。五分《ごふん》ばかりは無事であったが、しばらくすると、いつの間《ま》にやら、黒い眼は頁《ページ》を離れて、筋違《すじかい》に日脚《ひあし》の伸びた障子《しょうじ》の桟《さん》を見詰めている。――四五日藤尾に逢《あ》わぬ、きっと何とか思っているに違ない。ただの時なら四五日が十日《とおか》でもさして心配にはならぬ。過去に追いつかれた今の身には梳《くしけず》る間も千金である。逢えば逢うたびに願の的《まと》は近くなる。逢わねば元の君と我にたぐり寄すべき恋の綱の寸分だも縮まる縁《えにし》はない。のみならず、魔は節穴《ふしあな》の隙《すき》にも射す。逢わぬ半日に日が落ちぬとも限らぬ、籠《こも》る一夜《ひとよ》に月は入《い》る。等閑《なおざり》のこの四五日に藤尾の眉《まゆ》にいかな稲妻《いなずま》が差しているかは夢|測《はか》りがたい。論文を書くための勉強は無論大切である。しかし藤尾は論文よりも大切である。小野さんはぱたりと書物を伏せた。
 芭蕉布《ばしょうふ》の襖《ふすま》を開けると、押入の上段は夜具、下には柳行李《やなぎこうり》が見える。小野さんは行李の上に畳んである背広《せびろ》を出して手早く着換《きか》え終る。帽子は壁に主《ぬし》を待つ。がらりと障子を明けて、赤い鼻緒《はなお》の上草履《うわぞうり》に、カシミヤの靴足袋《くつたび》を無理に突き込んだ時、下女が来る。
「おや御出掛。少し御待ちなさいよ」
「何だ」と草履から顔を上げる。下女は笑っている。
「何か用かい」
「ええ」とやっぱり笑っている。
「何だ。冗談《じょうだん》か」と行こうとすると、卸《おろ》し立ての草履が片方《かたかた》足を離れて、拭き込んだ廊下を洋灯《ランプ》部屋の方へ滑って行く。
「ホホホホ余《あん》まり周章《あわて》るもんだから。御客様ですよ」
「誰だい」
「あら待ってた癖に空っとぼけて……」
「待ってた? 何を」
「ホホホホ大変|真面目《まじめ》ですね」と笑いながら、返事も待たず、入口へ引き返す。小野さんは気掛《きがかり》な顔をして障子の傍《そば》に上草履を揃《そろ》えたまま廊下の突き当りを眺《なが》めている。何が出てくるかと思う。焦茶《こげちゃ》の中折が鴨居《かもい》を越すほどの高い背を伸《の》して、薄暗い廊下のはずれに折目正しく着こなした背広の地味なだけに、胸開《むなあき》の狭い胴衣《チョッキ》から白い襯衣《シャツ》と白い襟《えり》が著るしく上品に見える。小野さんは姿よく着こなした衣裳《いしょう》を、見栄《みばえ》のせぬ廊下の片隅に、中ぶらりんに落ちつけて、光る眼鏡を斜めに、突き当りを眺めている。何が出てくるのかと思いながら眺めている。両手を洋袴《ズボン》の隠袋《かくし》に挿《さ》し込むのは落ちつかぬ時の、落ちついた姿である。
「そこを曲《まが》ると真直です」と云う下女の声が聞えたと思うと、すらりと小夜子の姿が廊下の端《はじ》にあらわれた。海老茶色《えびちゃいろ》の緞子《どんす》の片側が竜紋《りょうもん》の所だけ異様に光線を射返して見える。在来《ありきた》りの銘仙《めいせん》の袷《あわせ》を、白足袋《しろたび》の甲を隠さぬほどに着て、きりりと角を曲った時、長襦袢《ながじゅばん》らしいものがちらと色めいた。同時に遮《さえ》ぎるものもない中廊下に七歩の間隔を置いて、男女《なんにょ》の視線は御互の顔の上に落ちる。
 男はおやと思う。姿勢だけは崩《くず》さない。女ははっと躊躇《ためら》う。やがて頬に差す紅《くれない》を一度にかくして、乱るる笑顔を肩共に落す。油を注《さ》さぬ黒髪に、漣《さざなみ》の琥珀《こはく》に寄る幅広の絹の色が鮮《あざやか》な翼を片鬢《かたびん》に張る。
「さあ」と小野さんは隔たる人を近く誘うような挨拶《あいさつ》をする。
「どちらへか御出掛で……」と立ちながら両手を前に重ねた女は、落した肩を、少しく浮かしたままで、気の毒そうに動かない。
「いえ何……まあ御這入《おはい》んなさい。さあ」と片足を部屋のうちへ引く。
「御免」と云いながら、手を重ねたまま擦足《すりあし》に廊下を滑《すべ》って来る。
 男は全く部屋の中へ引き込んだ。女もつづいて這入《はい》る。明かなる日永の窓は若き二人に若き対話を促《うな》がす。
「昨夜は御忙《おいそが》しいところを……」と女は入口に近く手をつかえる。
「いえ、さぞ御疲でしたろう。どうです、御気分は。もうすっかり好いですか」
「はあ、御蔭《おかげ》さまで」と云う顔は何となく窶《やつ》れている。男はちょっと真面目になった。女はすぐ弁解する。
「あんな人込《ひとごみ》へは滅多《めった》に出つけた事がないもんですから」
 文明の民は驚ろいて喜ぶために博覧会を開く。過去の人は驚ろいて怖《こわ》がるためにイルミネーションを見る。
「先生はどうですか」
 小夜子は返事を控えて淋《さみ》しく笑った。
「先生も雑沓《ざっとう》する所が嫌《きらい》でしたね」
「どうも年を取ったもんですから」と気の毒そうに、相手から眼を外《はず》して、畳の上に置いてある埋木《うもれぎ》の茶托を眺《なが》める。京焼の染付茶碗《そめつけぢゃわん》はさっきから膝頭《ひざがしら》に載《の》っている。
「御迷惑でしたろう」と小野さんは隠袋《ポッケット》から煙草入を取り出す。闇《やみ》を照す月の色に富士と三保の松原が細かに彫ってある。その松に緑の絵の具を使ったのは詩人の持物としては少しく俗である。派出《はで》を好む藤尾の贈物かも知れない。
「いえ、迷惑だなんて。こっちから願って置いて」と小夜子は頭から小野さんの言葉を打ち消した。男は煙草入を開く。裏は一面の鍍金《ときん》に、銀《しろかね》の冴《さ》えたる上を、花やかにぱっと流す。淋しき女は見事だと思う。
「先生だけなら、もっと閑静な所へ案内した方が好かったかも知れませんね」
 忙しがる小野を無理に都合させて、好《す》かぬ人込へわざわざ出掛けるのも皆《みんな》自分が可愛いからである。済まぬ事には人込は自分も嫌である。せっかくの思に、袖《そで》振り交わして、長閑《のどか》な歩《あゆみ》を、春の宵《よい》に併《なら》んで移す当人は、依然として近寄れない。小夜子は何と返事をしていいか躊躇《ためら》った。相手の親切に気兼をして、先方の心持を悪くさせまいと云う世態《せたい》染みた料簡《りょうけん》からではない。小夜子の躊躇ったのには、もう少し切ない意味が籠《こも》っている。
「先生にはやはり京都の方が好くはないですか」と女の躊躇った気色《けしき》をどう解釈したか、小野さんは再び問い掛けた。
「東京へ来る前は、しきりに早く移りたいように云ってたんですけれども、来て見るとやはり住み馴《な》れた所が好いそうで」
「そうですか」と小野さんはおとなしく受けたが、心の中《うち》ではそれほど性《しょう》に合わない所へなぜ出て来たのかと、自分の都合を考えて多少馬鹿らしい気もする。
「あなたは」と聞いて見る。
 小夜子はまた口籠《くちごも》る。東京が好いか悪いかは、目の前に、西洋の臭《におい》のする煙草を燻《くゆ》らしている青年の心掛一つできまる問題である。船頭が客人に、あなたは船が好きですかと聞いた時、好きも嫌《きらい》も御前の舵《かじ》の取りよう一つさと答えなければならない場合がある。責任のある船頭にこんな質問を掛けられるほど腹の立つ事はないように、自分の好悪《こうお》を支配する人間から、素知らぬ顔ですき[#「すき」に傍点]かきらい[#「きらい」に傍点]かを尋ねられるのは恨《うら》めしい。小夜子はまた口籠る。小野さんはなぜこう豁達《はきはき》せぬのかと思う。
 胴衣《チョッキ》の隠袋《かくし》から時計を出して見る。
「どちらへか御出掛で」と女はすぐ悟った。
「ええ、ちょっと」と旨《うま》い具合に渡し込む。
 女はまた口籠る。男は少し焦慮《じれった》くなる。藤尾が待っているだろう。――しばらくは無言である。
「実は父が……」と小夜子はやっとの思で口を切った。
「はあ、何か御用ですか」
「いろいろ買物がしたいんですが……」
「なるほど」
「もし、御閑《おひま》ならば、小野さんにいっしょに行っていただいて勧工場《かんこうば》ででも買って来いと申しましたから」
「はあ、そうですか。そりゃ、残念な事で。ちょうど今から急いで出なければならない所があるもんですからね。――じゃ、こうしましょう。品物の名を聞いて置いて、私《わたし》が帰りに買って晩に持って行きましょう」
「それでは御気の毒で……」
「何構いません」
 父の好意は再び水泡《すいほう》に帰した。小夜子は悄然《しょうぜん》として帰る。小野さんは、脱いだ帽子を頭へ載《の》せて手早く表へ出る。――同時に逝《ゆ》く春の舞台は廻る。
 紫を辛夷《こぶし》の弁《はなびら》に洗う雨重なりて、花はようやく茶に朽《く》ちかかる椽《えん》に、干《ほ》す髪の帯を隠して、動かせば背に陽炎《かげろう》が立つ。黒きを外に、風が嬲《なぶ》り、日が嬲り、つい今しがたは黄な蝶《ちょう》がひらひらと嬲りに来た。知らぬ顔の藤尾は、内側を向いている。くっきりと肉の締った横顔は、後《うし》ろからさす日の影に、耳を蔽《おお》うて肩に流す鬢《びん》の影に、しっとりとして仄《ほのか》である。千筋《ちすじ》にぎらついて深き菫《すみれ》を一面に浴せる肩を
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