に持たした体《たい》を跳《は》ねるように後《うしろ》へ引いた。未来を覗く椿《つばき》の管《くだ》が、同時に揺れて、唐紅《からくれない》の一片《ひとひら》がロゼッチの詩集の上に音なしく落ちて来る。完《まった》き未来は、はや崩《くず》れかけた。
小野さんは机に添えて左《ひだ》りの手を伸《の》したまま、顔を斜《なな》めに、受け取った封書を掌《てのひら》の上に遠くから眺《なが》めていたが、容易に裏を返さない。返さんでもおおかたの見当《けんとう》はついている。ついていればこそ返しにくい。返した暁に推察の通りであったなら、それこそ取り返しがつかぬ。かつて亀《かめのこ》に聞いた事がある。首を出すと打たれる。どうせ打たれるとは思いながら、出来るならばと甲羅《こうら》の中に立て籠《こも》る。打たれる運命を眼前に控えた間際《まぎわ》でも、一刻の首は一刻だけ縮めていたい。思うに小野さんは事実の判決を一寸《いっすん》に逃《のが》れる学士の亀であろう。亀は早晩首を出す。小野さんも今に封筒の裏を返すに違ない。
良《やや》しばらく眺めていると今度は掌がむず痒《が》ゆくなる。一刻の安きを貪《むさぼ》った後《あと》
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