は未来を製造する必要はない。蕾《つぼ》んだ薔薇を一面に開かせればそれが自《おのず》からなる彼の未来である。未来の節穴を得意の管《くだ》から眺《なが》めると、薔薇はもう開いている。手を出せば捕《つら》まえられそうである。早く捕まえろと誰かが耳の傍《そば》で云う。小野さんは博士論文を書こうと決心した。
 論文が出来たから博士になるものか、博士になるために論文が出来るものか、博士に聞いて見なければ分らぬが、とにかく論文を書かねばならぬ。ただの論文ではならぬ、必《かなら》ず博士論文でなくてはならぬ。博士は学者のうちで色のもっとも見事なるものである。未来の管を覗くたびに博士の二字が金色《こんじき》に燃えている。博士の傍には金時計が天から懸《かか》っている。時計の下には赤い柘榴石《ガーネット》が心臓の焔《ほのお》となって揺れている。その側《わき》に黒い眼の藤尾さんが繊《ほそ》い腕を出して手招《てまね》ぎをしている。すべてが美くしい画《え》である。詩人の理想はこの画の中の人物となるにある。
 昔《むか》しタンタラスと云う人があった。わるい事をした罰《ばち》で、苛《ひど》い目に逢《お》うたと書いてある
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