また玩具にしているかも知れないが……」
「藤尾さんとあの時計はとうてい離せないか。ハハハハなに構わない、それでも貰おう」
甲野さんは、だまって宗近君の眉《まゆ》の間を、長い事見ていた。御昼の膳《ぜん》の上には宗近君の予言通り鱧《はも》が出た。
四
甲野《こうの》さんの日記の一筋に云う。
「色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず」
小野さんは色を見て世を暮らす男である。
甲野さんの日記の一筋にまた云う。
「生死因縁《しょうしいんねん》無了期《りょうきなし》、色相世界《しきそうせかい》現狂癡《きょうちをげんず》」
小野さんは色相《しきそう》世界に住する男である。
小野さんは暗い所に生れた。ある人は私生児だとさえ云う。筒袖《つつそで》を着て学校へ通う時から友達に苛《いじ》められていた。行く所で犬に吠《ほ》えられた。父は死んだ。外で辛《ひど》い目に遇《あ》った小野さんは帰る家が無くなった。やむなく人の世話になる。
水底《みなそこ》の藻《も》は、暗い所に漂《ただよ》うて、白帆行く岸辺に日のあたる事を知らぬ。右に揺《うご》こうが、左《ひだ》りに靡《なび》こ
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