るほど好い景色《けしき》だ」と甲野さんは例の長身を捩《ね》じ向けて、際《きわ》どく六十度の勾配《こうばい》に擦り落ちもせず立ち留っている。
「いつの間《ま》に、こんなに高く登ったんだろう。早いものだな」と宗近《むねちか》君が云う。宗近君は四角な男の名である。
「知らぬ間に堕落したり、知らぬ間に悟ったりするのと同じようなものだろう」
「昼が夜になったり、春が夏になったり、若いものが年寄りになったり、するのと同じ事かな。それなら、おれも疾《と》くに心得ている」
「ハハハハそれで君は幾歳《いくつ》だったかな」
「おれの幾歳より、君は幾歳だ」
「僕は分かってるさ」
「僕だって分かってるさ」
「ハハハハやっぱり隠す了見《りょうけん》だと見える」
「隠すものか、ちゃんと分ってるよ」
「だから、幾歳なんだよ」
「君から先へ云え」と宗近君はなかなか動じない。
「僕は二十七さ」と甲野君は雑作《ぞうさ》もなく言って退《の》ける。
「そうか、それじゃ、僕も二十八だ」
「だいぶ年を取ったものだね」
「冗談《じょうだん》を言うな。たった一つしか違わんじゃないか」
「だから御互にさ。御互に年を取ったと云うんだ」
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