「わずかです」
「わずかとは」
「みんなで六十円ばかりです。一人がようようです」
「下宿をして?」
「ええ」
「そりゃ馬鹿気《ばかげ》ている。一人で六十円使うのはもったいない。家を持っても楽に暮せる」
小野さんはまた返事のしようがなかった。
東京は物価《もの》が高いと云いながら、東京と京都の区別を知らない。鳴海絞《なるみしぼり》の兵児帯《へこおび》を締めて芋粥《いもがい》に寒さを凌《しの》いだ時代と、大学を卒業して相当の尊敬を衣帽《いぼう》の末に払わねばならぬ今の境遇とを比較する事を知らない。書物は学者に取って命から二代目である。按摩《あんま》の杖と同じく、無くっては世渡りが出来ぬほどに大切な道具である。その書物は机の上へ湧《わ》いてでも出る事か、中には人の驚くような奮発をして集めている。先生はそんな費用が、どれくらいかかるかまるで一切空《いっさいくう》である。したがって、おいそれと簡単な返事が出来ない。
小野さんは何を思ったか、左手を畳へつかえると、右を伸《のば》して洋灯《ランプ》の心《しん》をぱっと出した。六畳の小地球が急に東の方へ廻転したように、一度は明るくなる。先生の世界
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