」
「父は謡《うたい》の会で朝から出ました」
「そう」と男は長い体躯《からだ》を、半分回して、横顔を糸子の方へ向けた。
「まあ、御這入《おはいり》、――兄はもう帰りましょう」
「ありがとう」と甲野さんは壁に物を云う。
「どうぞ」と誘い込むように片足を後《あと》へ引いた。着物はあらい縞《しま》の銘仙《めいせん》である。
「ありがとう」
「どうぞ」
「どこへ行ったんです」と甲野さんは壁に向けた顔を、少し女の方へ振り直す。後《うしろ》から掠《かす》めて来る日影に、蒼《あお》い頬が、気のせいか、昨日《きのう》より少し瘠《こ》けたようだ。
「散歩でしょう」と女は首を傾けて云う。
「私《わたし》も今散歩した帰りだ。だいぶ歩いて疲れてしまって……」
「じゃ、少し上がって休んでいらっしゃい。もう帰る時分ですから」
話は少しずつ延びる。話の延びるのは気の延びた証拠である。甲野さんは粗柾《あらまさ》の俎下駄《まないたげた》を脱いで座敷へ上がる。
長押作《なげしづく》りに重い釘隠《くぎかくし》を打って、動かぬ春の床《とこ》には、常信《つねのぶ》の雲竜《うんりゅう》の図を奥深く掛けてある。薄黒く墨を流した
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