云えない。クレオパトラはあんな冠をかぶっている」
「どうして御存じなの」と藤尾は鋭どく聞いた。
「御前の持っている本に絵がかいてあるじゃないか」
「空より水の方が奇麗《きれい》よ」と糸子が突然注意した。対話はクレオパトラを離れる。
 昼でも死んでいる水は、風を含まぬ夜の影に圧《お》し付けられて、見渡す限り平かである。動かぬはいつの事からか。静かなる水は知るまい。百年の昔に掘った池ならば、百年以来動かぬ、五十年の昔ならば、五十年以来動かぬとのみ思われる水底《みなそこ》から、腐った蓮《はす》の根がそろそろ青い芽《め》を吹きかけている。泥から生れた鯉《こい》と鮒《ふな》が、闇《やみ》を忍んで緩《ゆる》やかに※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]《あぎと》を働かしている。イルミネーションは高い影を逆《さかし》まにして、二丁|余《あまり》の岸を、尺も残さず真赤《まっか》になってこの静かなる水の上に倒れ込む。黒い水は死につつもぱっと色を作《な》す。泥に潜《ひそ》む魚の鰭《ひれ》は燃える。
 湿《うるお》える※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]は、一抹《いちまつ》に岸を伸《の》して
前へ 次へ
全488ページ中216ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング