「だから落ちついていないんだよ。学問に凝《こ》ると誰でもあんなものさ。あんまり心配しないがいい。なに緩《ゆっ》くりしたくっても、していられないんだから仕方がない。え? 何だって」
「あんなにね」
「うん」
「急いでね」
「ああ」
「御帰りに……」
「御帰りに――なった? ならないでも? 好さそうなものだって仕方がないよ。学問で夢中になってるんだから。――だから一日《いちんち》都合をして貰って、いっしょに博覧会でも見ようって云ってるんじゃないか。御前話したかい」
「いいえ」
「話さない? 話せばいいのに。いったい小野が来たと云うのに何をしていたんだ。いくら女だって、少しは口を利《き》かなくっちゃいけない」
 口を利けぬように育てて置いてなぜ口を利かぬと云う。小夜子はすべての非を負わねばならぬ。眼の中が熱くなる。
「なに好いよ。阿父《おとっさん》が手紙で聞き合せるから――悲しがる事はない。叱ったんじゃない。――時に晩の御飯はあるかい」
「御飯だけはあります」
「御飯だけあればいい、なに御菜《おさい》はいらないよ。――頼んで置いた婆さんは明日《あした》くるそうだ。――もう少し慣れると、東京
前へ 次へ
全488ページ中182ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング