余計動かずにいようと云う算段だな。怪《け》しからん男だ」
「愛嬌と云うのはね、――自分より強いものを斃《たお》す柔《やわら》かい武器だよ」
「それじゃ無愛想《ぶあいそ》は自分より弱いものを、扱《こ》き使う鋭利なる武器だろう」
「そんな論理があるものか。動こうとすればこそ愛嬌も必要になる。動けば反吐を吐くと知った人間に愛嬌が入るものか」
「いやに詭弁《きべん》を弄《ろう》するね。そんなら僕は御先へ御免蒙《ごめんこうむ》るぜ。いいか」
「勝手にするがいい」と甲野さんはやっぱり空を眺めている。
 宗近君は脱いだ両袖をぐるぐると腰へ巻き付けると共に、毛脛《けずね》に纏《まつ》わる竪縞《たてじま》の裾《すそ》をぐいと端折《はしお》って、同じく白縮緬《しろちりめん》の周囲《まわり》に畳み込む。最前袖畳にした羽織を桜の杖の先へ引き懸《か》けるが早いか「一剣天下を行く」と遠慮のない声を出しながら、十歩に尽くる岨路《そばみち》を飄然《ひょうぜん》として左へ折れたぎり見えなくなった。
 あとは静である。静かなる事|定《さだま》って、静かなるうちに、わが一脈《いちみゃく》の命を託《たく》すると知った時、この
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