板返《といたがえ》しにずどんと過去へ落ちた。
 追い懸けて来る過去を逃《の》がるるは雲紫《くもむらさき》に立ち騰《のぼ》る袖香炉《そでこうろ》の煙《けぶ》る影に、縹緲《ひょうびょう》の楽しみをこれぞと見極《みきわ》むるひまもなく、貪《むさ》ぼると云う名さえつけがたき、眼と眼のひたと行き逢いたる一拶《いっさつ》に、結ばぬ夢は醒《さ》めて、逆《さか》しまに、われは過去に向って投げ返される。草間蛇《そうかんだ》あり、容易に青《せい》を踏む事を許さずとある。
「蔦屋《つたや》がどうかしたの」と藤尾は糸子に向う。
「なにその蔦屋にね、欽吾さんと兄さんが宿《とま》ってるんですって。だから、どんな所《とこ》かと思って、小野さんに伺って見たんです」
「小野さん知っていらしって」
「三条ですか。三条の蔦屋と。そうですね、有ったようにも覚えていますが……」
「それじゃ、そんな有名な旅屋《はたごや》じゃないんですね」と糸子は無邪気に小野さんの顔を見る。
「ええ」と小野さんは切なそうに答えた。今度は藤尾の番となる。
「有名でなくったって、好いじゃありませんか。裏座敷で琴が聴《きこ》えて――もっとも兄と一さんじ
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