そうさその理想の極端は京人形だ。人形は器械だけに厭味《いやみ》がない」
「どうも淡粧《あっさり》して、活動する奴が一番人間の分子が多くって危険だ」
「ハハハハいかなる哲学者でも危険だろうな。ところが都踊となると、外交官にも危険はない。至極《しごく》御同感だ。御互に無事な所へ遊びに来てまあ善《よ》かったよ」
「人間の分子も、第一義が活動すると善いが、どうも普通は第十義ぐらいがむやみに活動するから厭《いや》になっちまう」
「御互は第何義ぐらいだろう」
「御互になると、これでも人間が上等だから、第二義、第三義以下には出ないね」
「これでかい」
「云う事はたわいがなくっても、そこに面白味がある」
「ありがたいな。第一義となると、どんな活動だね」
「第一義か。第一義は血を見ないと出て来ない」
「それこそ危険だ」
「血でもってふざけた了見《りょうけん》を洗った時に、第一義が躍然とあらわれる。人間はそれほど軽薄なものなんだよ」
「自分の血か、人の血か」
甲野さんは返事をする代りに、売店に陳《なら》べてある、抹茶茶碗《まっちゃぢゃわん》を見始めた。土を捏《こ》ねて手造りにしたものか、棚三段を尽くして、あるものはことごとくとぼけ[#「とぼけ」に傍点]ている。
「そんなとぼけ[#「とぼけ」に傍点]た奴は、いくら血で洗ったって駄目だろう」と宗近君はなおまつわって来る。
「これは……」と甲野さんが茶碗の一つを取り上げて眺《なが》めている袖《そで》を、宗近君は断わりもなく、力任せにぐいと引く。茶碗は土間の上で散々に壊れた。
「こうだ」と甲野さんが壊れた片《かけ》を土の上に眺めている。
「おい、壊れたか。壊れたって、そんなものは構わん。ちょっとこっちを見ろ。早く」
甲野さんは土間の敷居を跨《また》ぐ。「何だ」と天竜寺の方を振り返る向うは例の京人形の後姿がぞろぞろ行くばかりである。
「何だ」と甲野さんは聞き直す。
「もう行ってしまった。惜しい事をした」
「何が行ってしまったんだ」
「あの女がさ」
「あの女とは」
「隣りのさ」
「隣りの?」
「あの琴《こと》の主さ。君が大いに見たがった娘さ。せっかく見せてやろうと思ったのに、下らない茶碗なんかいじくっているもんだから」
「そりゃ惜しい事をした。どれだい」
「どれだか、もう見えるものかね」
「娘も惜しいがこの茶碗は無残《むざん》な事をした。罪は君にある」
「有ってたくさんだ。そんな茶碗は洗ったくらいじゃ追《おっ》つかない。壊してしまわなけりゃ直らない厄介物《やっかいぶつ》だ。全体茶人の持ってる道具ほど気に食わないものはない。みんな、ひねくれている。天下の茶器をあつめてことごとく敲《たた》き壊してやりたい気がする。何ならついでだからもう一つ二つ茶碗を壊して行こうじゃないか」
「ふうん、一個何銭ぐらいかな」
二人は茶碗の代を払って、停車場《ステーション》へ来る。
浮かれ人を花に送る京の汽車は嵯峨《さが》より二条《にじょう》に引き返す。引き返さぬは山を貫いて丹波《たんば》へ抜ける。二人は丹波行の切符を買って、亀岡《かめおか》に降りた。保津川《ほづがわ》の急湍《きゅうたん》はこの駅より下《くだ》る掟《おきて》である。下るべき水は眼の前にまだ緩《ゆる》く流れて碧油《へきゆう》の趣《おもむき》をなす。岸は開いて、里の子の摘《つ》む土筆《つくし》も生える。舟子《ふなこ》は舟を渚《なぎさ》に寄せて客を待つ。
「妙な舟だな」と宗近君が云う。底は一枚板の平らかに、舷《こべり》は尺と水を離れぬ。赤い毛布《けっと》に煙草盆を転がして、二人はよきほどの間隔に座を占める。
「左へ寄っていやはったら、大丈夫どす、波はかかりまへん」と船頭が云う。船頭の数《かず》は四人である。真っ先なるは、二間の竹竿《たけざお》、続《つ》づく二人は右側に櫂《かい》、左に立つは同じく竿である。
ぎいぎいと櫂《かい》が鳴る。粗削《あらけず》りに平《たいら》げたる樫《かし》の頸筋《くびすじ》を、太い藤蔓《ふじづる》に捲《ま》いて、余る一尺に丸味を持たせたのは、両の手にむんずと握る便りである。握る手の節《ふし》の隆《たか》きは、真黒きは、松の小枝に青筋を立てて、うんと掻《か》く力の脈を通わせたように見える。藤蔓に頸根《くびね》を抑えられた櫂が、掻《か》くごとに撓《しわ》りでもする事か、強《こわ》き項《うなじ》を真直《ますぐ》に立てたまま、藤蔓と擦《す》れ、舷と擦れる。櫂は一掻ごとにぎいぎいと鳴る。
岸は二三度うねりを打って、音なき水を、停《とど》まる暇なきに、前へ前へと送る。重《かさ》なる水の蹙《しじま》って行く、頭《こうべ》の上には、山城《やましろ》を屏風《びょうぶ》と囲う春の山が聳《そび》えている。逼《せま》りたる水はやむなく山と山の間に入る。帽に照る
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