日の、たちまちに影を失うかと思えば舟は早くも山峡《さんきょう》に入る。保津の瀬はこれからである。
「いよいよ来たぜ」と宗近君は船頭の体《たい》を透《す》かして岩と岩の逼《せま》る間を半丁の向《むこう》に見る。水はごうと鳴る。
「なるほど」と甲野さんが、舷《ふなばた》から首を出した時、船ははや瀬の中に滑《すべ》り込んだ。右側の二人はすわと波を切る手を緩《ゆる》める。櫂《かい》は流れて舷に着く。舳《へさき》に立つは竿《さお》を横《よこた》えたままである。傾《かた》むいて矢のごとく下る船は、どどどと刻《きざ》み足に、船底に据えた尻に響く。壊《こ》われるなと気がついた時は、もう走る瀬を抜けだしていた。
「あれだ」と宗近君が指《ゆびさ》す後《うし》ろを見ると、白い泡《あわ》が一町ばかり、逆《さ》か落しに噛《か》み合って、谷を洩《も》る微《かす》かな日影を万顆《ばんか》の珠《たま》と我勝《われがち》に奪い合っている。
「壮《さか》んなものだ」と宗近君は大いに御意《ぎょい》に入った。
「夢窓国師とどっちがいい」
「夢窓国師よりこっちの方がえらいようだ」
 船頭は至極《しごく》冷淡である。松を抱く巌《いわ》の、落ちんとして、落ちざるを、苦にせぬように、櫂を動かし来り、棹《さお》を操《あやつ》り去る。通る瀬はさまざまに廻《めぐ》る。廻るごとに新たなる山は当面に躍《おど》り出す。石山、松山、雑木山《ぞうきやま》と数うる遑《いとま》を行客《こうかく》に許さざる疾《と》き流れは、船を駆《か》ってまた奔湍《ほんたん》に躍り込む。
 大きな丸い岩である。苔《こけ》を畳む煩《わずら》わしさを避けて、紫《むらさき》の裸身《はだかみ》に、撃《う》ちつけて散る水沫《しぶき》を、春寒く腰から浴びて、緑り崩《くず》るる真中に、舟こそ来れと待つ。舟は矢《や》も楯《たて》も物かは。一図《いちず》にこの大岩を目懸けて突きかかる。渦捲《うずま》いて去る水の、岩に裂かれたる向うは見えず。削《けず》られて坂と落つる川底の深さは幾段か、乗る人のこなたよりは不可思議の波の行末《ゆくえ》である。岩に突き当って砕けるか、捲《ま》き込まれて、見えぬ彼方《かなた》にどっと落ちて行くか、――舟はただまともに進む。
「当るぜ」と宗近君が腰を浮かした時、紫の大岩は、はやくも船頭の黒い頭を圧して突っ立った。船頭は「うん」と舳に気合を入れた。舟は砕けるほどの勢いに、波を呑《の》む岩の太腹に潜《もぐ》り込む。横たえた竿は取り直されて、肩より高く両の手が揚《あ》がると共に舟はぐうと廻った。この獣奴《けだものめ》と突き離す竿の先から、岩の裾《すそ》を尺も余さず斜めに滑って、舟は向うへ落ち出した。
「どうしても夢窓国師より上等だ」と宗近君は落ちながら云う。
 急灘《きゅうなん》を落ち尽すと向《むこう》から空舟《からふね》が上《のぼ》ってくる。竿も使わねば、櫂は無論の事である。岩角に突っ張った懸命の拳《こぶし》を収めて、肩から斜めに目暗縞《めくらじま》を掠《から》めた細引縄に、長々と谷間伝いを根限り戻り舟を牽《ひ》いて来る。水行くほかに尺寸《せきすん》の余地だに見出《みいだ》しがたき岸辺を、石に飛び、岩に這《は》うて、穿《は》く草鞋《わらんじ》の滅《め》り込むまで腰を前に折る。だらりと下げた両の手は塞《せ》かれて注《そそ》ぐ渦の中に指先を浸《ひた》すばかりである。うんと踏ん張る幾世《いくよ》の金剛力に、岩は自然《じねん》と擦《す》り減って、引き懸けて行く足の裏を、安々と受ける段々もある。長い竹をここ、かしこと、岩の上に渡したのは、牽綱《ひきづな》をわが勢に逆《さから》わぬほどに、疾《と》く滑《すべ》らすための策《はかりごと》と云う。
「少しは穏《おだや》かになったね」と甲野さんは左右の岸に眼を放つ。踏む角も見えぬ切っ立った山の遥《はる》かの上に、鉈《なた》の音が丁々《ちょうちょう》とする。黒い影は空高く動く。
「まるで猿だ」と宗近君は咽喉仏《のどぼとけ》を突き出して峰を見上げた。
「慣《な》れると何でもするもんだね」と相手も手を翳《かざ》して見る。
「あれで一日働いて若干《いくら》になるだろう」
「若干になるかな」
「下から聞いて見《み》ようか」
「この流れは余り急過ぎる。少しも余裕がない。のべつに駛《はし》っている。所々にこう云う場所がないとやはり行かんね」
「おれは、もっと、駛りたい。どうも、さっきの岩の腹を突いて曲がった時なんか実に愉快だった。願《ねがわ》くは船頭の棹《さお》を借りて、おれが、舟を廻したかった」
「君が廻せば今頃は御互に成仏《じょうぶつ》している時分だ」
「なに、愉快だ。京人形を見ているより愉快じゃないか」
「自然は皆第一義で活動しているからな」
「すると自然は人間の御手本だね」
「なに
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