リームを食うて来た」
「アイスクリーム? そう、昨日はだいぶ暑かったからね」
「今度は露西亜《ロシア》料理を食いに行くつもりだ。どうだいっしょに行かんか」
「今日かい」
「うん今日でもいい」
「今日は、少し……」
「行かんか。あまり勉強すると病気になるぞ。早く博士になって、美しい嫁さんでも貰おうと思うてけつかる。失敬な奴ちゃ」
「なにそんな事はない。勉強がちっとも出来なくって困る」
「神経衰弱だろう。顔色が悪いぞ」
「そうか、どうも心持ちがわるい」
「そうだろう。井上の御嬢さんが心配する、早く露西亜《ロシア》料理でも食うて、好うならんと」
「なぜ」
「なぜって、井上の御嬢さんは東京へ来るんだろう」
「そうか」
「そうかって、君の所へは無論通知が来たはずじゃ」
「君の所へは来たかい」
「うん、来た。君の所へは来んのか」
「いえ来た事は来たがね」
「いつ来たか」
「もう少し先刻《さっき》だった」
「いよいよ結婚するんだろう」
「なにそんな事があるものか」
「せんのか、なぜ?」
「なぜって、そこにはだんだん深い事情があるんだがね」
「どんな事情が」
「まあ、それはおって緩《ゆ》っくり話すよ。僕も井上先生には大変世話になったし、僕の力で出来る事は何でも先生のためにする気なんだがね。結婚なんて、そう思う通りに急に出来るものじゃないさ」
「しかし約束があるんだろう」
「それがね、いつか君にも話そう話そうと思っていたんだが、――僕は実に先生には同情しているんだよ」
「そりゃ、そうだろう」
「まあ、先生が出て来たら緩《ゆっ》くり話そうと思うんだね。そう向うだけで一人《ひとり》ぎめにきめていても困るからね」
「どんなに一人できめているんだい」
「きめているらしいんだね、手紙の様子で見ると」
「あの先生も随分|昔堅気《むかしかたぎ》だからな」
「なかなか自分できめた事は動かない。一徹《いってつ》なんだ」
「近頃は家計《くらし》の方も余りよくないんだろう」
「どうかね。そう困りもしまい」
「時に何時《なんじ》かな、君ちょっと時計を見てくれ」
「二時十六分だ」
「二時十六分?――それが例の恩賜の時計か」
「ああ」
「旨《うま》い事をしたなあ。僕も貰って置けばよかった。こう云うものを持っていると世間の受けがだいぶ違うな」
「そう云う事もあるまい」
「いやある。何しろ天皇陛下が保証して下さったんだからたしかだ」
「君これからどこかへ行くのかい」
「うん、天気がいいから遊ぶんだ。どうだいっしょに行かんか」
「僕は少し用があるから――しかしそこまでいっしょに出よう」
 門口《かどぐち》で分れた小野さんの足は甲野の邸に向った。

        五

 山門を入る事一歩にして、古き世の緑《みど》りが、急に左右から肩を襲う。自然石《じねんせき》の形状《かたち》乱れたるを幅一間に行儀よく並べて、錯落《さくらく》と平らかに敷き詰めたる径《こみち》に落つる足音は、甲野《こうの》さんと宗近《むねちか》君の足音だけである。
 一条《いちじょう》の径の細く直《すぐ》なるを行き尽さざる此方《こなた》から、石に眼を添えて遥《はる》かなる向うを極《きわ》むる行き当りに、仰《あお》げば伽藍《がらん》がある。木賊葺《とくさぶき》の厚板が左右から内輪にうねって、大《だい》なる両の翼を、険《けわ》しき一本の背筋《せすじ》にあつめたる上に、今一つ小さき家根《やね》が小さき翼を伸《の》して乗っかっている。風抜《かざぬ》きか明り取りかと思われる。甲野さんも、宗近君もこの精舎《しょうじゃ》を、もっとも趣きある横側の角度から同時に見上げた。
「明かだ」と甲野さんは杖《つえ》を停《とど》めた。
「あの堂は木造でも容易に壊す事が出来ないように見える」
「つまり恰好《かっこう》が旨《うま》くそう云う風に出来てるんだろう。アリストートルのいわゆる理形《フォーム》に適《かな》ってるのかも知れない」
「だいぶむずかしいね。――アリストートルはどうでも構わないが、この辺の寺はどれも、一種妙な感じがするのは奇体だ」
「舟板塀《ふないたべい》趣味《しゅみ》や御神灯《ごじんとう》趣味《しゅみ》とは違うさ。夢窓国師《むそうこくし》が建てたんだもの」
「あの堂を見上げて、ちょっと変な気になるのは、つまり夢窓国師になるんだな。ハハハハ。夢窓国師も少しは話せらあ」
「夢窓国師や大燈国師になるから、こんな所を逍遥《しょうよう》する価値があるんだ。ただ見物したって何になるもんか」
「夢窓国師も家根《やね》になって明治まで生きていれば結構だ。安直《あんちょく》な銅像よりよっぽどいいね」
「そうさ、一目瞭然《いちもくりょうぜん》だ」
「何が」
「何がって、この境内《けいだい》の景色《けしき》がさ。ちっとも曲っていない。どこまでも明ら
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