去に向けた上は、眼に映るは煕々《きき》たる前程のみである。後《うしろ》を向けばひゅうと北風が吹く。この寒い所をやっとの思いで斬り抜けた昨日今日《きのうきょう》、寒い所から、寒いものが追っ懸《か》けて来る。今まではただ忘れればよかった。未来の発展の暖く鮮《あざ》やかなるうちに、己《おの》れを捲《ま》き込んで、一歩でも過去を遠退《とおの》けばそれで済んだ。生きている過去も、死んだ過去のうちに静かに鏤《ちりばめ》られて、動くかとは掛念《けねん》しながらも、まず大丈夫だろうと、その日、その日に立ち退《の》いては、顧みるパノラマの長く連なるだけで、一点も動かぬに胸を撫《な》でていた。ところが、昔しながらとたかを括《くく》って、過去の管《くだ》を今さら覗いて見ると――動くものがある。われは過去を棄てんとしつつあるに、過去はわれに近づいて来る。逼《せま》って来る。静かなる前後と枯れ尽したる左右を乗り超《こ》えて、暗夜《やみよ》を照らす提灯《ちょうちん》の火のごとく揺れて来る、動いてくる。小野さんは部屋の中を廻り始めた。
自然は自然を用い尽さぬ。極《きわ》まらんとする前に何事か起る。単調は自然の敵である。小野さんが部屋の中を廻り始めて半分《はんぷん》と立たぬうちに、障子《しょうじ》から下女の首が出た。
「御客様」と笑いながら云う。なぜ笑うのか要領を得ぬ。御早うと云っては笑い、御帰んなさいと云っては笑い、御飯ですと云っては笑う。人を見て妄《みだ》りに笑うものは必ず人に求むるところのある証拠である。この下女はたしかに小野さんからある報酬を求めている。
小野さんは気のない顔をして下女を見たのみである。下女は失望した。
「通しましょうか」
小野さんは「え、うん」と判然しない返事をする。下女はまた失望した。下女がむやみに笑うのは小野さんに愛嬌《あいきょう》があるからである。愛嬌のない御客は下女から見ると半文《はんもん》の価値もない。小野さんはこの心理を心得ている。今日《こんにち》まで下女の人望を繋《つな》いだのも全くこの自覚に基《もと》づく。小野さんは下女の人望をさえ妄《みだ》りに落す事を好まぬほどの人物である。
同一の空間は二物によって同時に占有せらるる事|能《あた》わずと昔《むか》しの哲学者が云った。愛嬌と不安が同時に小野さんの脳髄に宿る事はこの哲学者の発明に反する。愛嬌が退《の》いて不安が這入《はい》る。下女は悪《わ》るいところへぶつかった。愛嬌が退いて不安が這入る。愛嬌が附焼刃《つけやきば》で不安が本体だと思うのは偽哲学者である。家主《いえぬし》が這入るについて、愛嬌が示談《じだん》の上、不安に借家を譲り渡したまでである。それにしても小野さんは悪るいところを下女に見られた。
「通してもいいんですか」
「うん、そうさね」
「御留守だって云いましょうか」
「誰だい」
「浅井さん」
「浅井か」
「御留守?」
「そうさね」
「御留守になさいますか」
「どう、しようか知ら」
「どっち、でも」
「逢《あ》おうかな」
「じゃ、通しましょう」
「おい、ちょっと、待った。おい」
「何です」
「ああ、好《い》い。好《よ》し好し」
友達には逢いたい時と、逢いたくない時とある。それが判然すれば何の苦もない。いやなら留守を使えば済む。小野さんは先方の感情を害せぬ限りは留守を使う勇気のある男である。ただ困るのは逢いたくもあり、逢いたくもなくて、前へ行ったり後《うし》ろへ戻ったりして下女にまで馬鹿にされる時である。
往来で人と往き合う事がある。双方でちょっと体《たい》を交《か》わせば、それぎりで御互にもとの通り、あかの他人となる。しかし時によると両方で、同じ右か、同じ左りへ避《よ》ける。これではならぬと反対の側へ出ようと、足元を取り直すとき、向うもこれではならぬと気を換《か》えて反対へ出る。反対と反対が鉢合《はちあわ》せをして、おいしまったと心づいて、また出直すと、同時同刻に向うでも同様に出直してくる。両人は出直そうとしては出遅れ、出遅れては出直そうとして、柱時計の振子《ふりこ》のようにこっち、あっちと迷い続けに迷うてくる。しまいには双方で双方を思い切りの悪《わ》るい野郎だと悪口《わるくち》が云いたくなる。人望のある小野さんは、もう少しで下女に思い切りの悪るい野郎だと云われるところであった。
そこへ浅井君が這入《はい》ってくる。浅井君は京都以来の旧友である。茶の帽子のいささか崩れかかったのを、右の手で圧《お》し潰《つぶ》すように握って、畳の上へ抛《ほう》り出すや否や
「ええ天気だな」と胡坐《あぐら》をかく。小野さんは天気の事を忘れていた。
「いい天気だね」
「博覧会へ行ったか」
「いいや、まだ行かない」
「行って見い、面白いぜ。昨日《きのう》行っての、アイスク
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