。身体《からだ》は肩深く水に浸《ひた》っている。頭の上には旨《うま》そうな菓物《くだもの》が累々《るいるい》と枝をたわわに結実《な》っている。タンタラスは咽喉《のど》が渇《かわ》く。水を飲もうとすると水が退《ひ》いて行く。タンタラスは腹が減る。菓物を食おうとすると菓物が逃げて行く。タンタラスの口が一尺動くと向うでも一尺動く。二尺|前《すす》むと向うでも二尺前む。三尺四尺は愚か、千里を行き尽しても、タンタラスは腹が減り通しで、咽喉が渇き続けである。おおかた今でも水と菓物を追っ懸《か》けて歩いてるだろう。――未来の管を覗くたびに、小野さんは、何だかタンタラスの子分のような気がする。それのみではない。時によると藤尾さんがつんと澄ましている事がある。長い眉《まゆ》を押しつけたように短かくして、屹《きっ》と睨《にら》めている事がある。柘榴石がぱっと燃えて、※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]のなかに、女の姿が、包まれながら消えて行く事がある。博士の二字がだんだん薄くなって剥《は》げながら暗くなる事がある。時計が遥《はる》かな天から隕石《いんせき》のように落ちて来て、割れる事がある。その時はぴしりと云う音がする。小野さんは詩人であるからいろいろな未来を描《えが》き出す。
机の前に頬杖《ほおづえ》を突いて、色硝子《いろガラス》の一輪挿《いちりんざし》をぱっと蔽《おお》う椿《つばき》の花の奥に、小野さんは、例によって自分の未来を覗いている。幾通りもある未来のなかで今日は一層出来がわるい。
「この時計をあなたに上げたいんだけれどもと女が云う。どうか下さいと小野さんが手を出す。女がその手をぴしゃりと平手《ひらて》でたたいて、御気の毒様もう約束済ですと云う。じゃ時計は入りません、しかしあなたは……と聞くと、私? 私は無論時計にくっ付いているんですと向《むこう》をむいて、すたすた歩き出す」
小野さんは、ここまで未来をこしらえて見たが、余り残刻《ざんこく》なのに驚いて、また最初から出直そうとして、少し痛くなり掛けた※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]《あご》を持ち上げると、障子《しょうじ》が、すうと開《あ》いて、御手紙ですと下女が封書を置いて行く。
「小野清三様」と子昂流《すごうりゅう》にかいた名宛《なあて》を見た時、小野さんは、急に両肱《りょうひじ》に力を入れて、机に持たした体《たい》を跳《は》ねるように後《うしろ》へ引いた。未来を覗く椿《つばき》の管《くだ》が、同時に揺れて、唐紅《からくれない》の一片《ひとひら》がロゼッチの詩集の上に音なしく落ちて来る。完《まった》き未来は、はや崩《くず》れかけた。
小野さんは机に添えて左《ひだ》りの手を伸《の》したまま、顔を斜《なな》めに、受け取った封書を掌《てのひら》の上に遠くから眺《なが》めていたが、容易に裏を返さない。返さんでもおおかたの見当《けんとう》はついている。ついていればこそ返しにくい。返した暁に推察の通りであったなら、それこそ取り返しがつかぬ。かつて亀《かめのこ》に聞いた事がある。首を出すと打たれる。どうせ打たれるとは思いながら、出来るならばと甲羅《こうら》の中に立て籠《こも》る。打たれる運命を眼前に控えた間際《まぎわ》でも、一刻の首は一刻だけ縮めていたい。思うに小野さんは事実の判決を一寸《いっすん》に逃《のが》れる学士の亀であろう。亀は早晩首を出す。小野さんも今に封筒の裏を返すに違ない。
良《やや》しばらく眺めていると今度は掌がむず痒《が》ゆくなる。一刻の安きを貪《むさぼ》った後《あと》は、安き思《おもい》を、なお安くするために、裏返して得心したくなる。小野さんは思い切って、封筒を机の上に逆《ぎゃく》に置いた。裏から井上孤堂《いのうえこどう》の四字が明かにあらわれる。白い状袋に墨を惜しまず肉太に記した草字《そうじ》は、小野さんの眼に、針の先を並べて植えつけたように紙を離れて飛びついて来た。
小野さんは障《さわ》らぬ神に祟《たたり》なしと云う風で、両手を机から離す。ただ顔だけが机の上の手紙に向いている。しかし机と膝《ひざ》とは一尺の谷で縁が切れている。机から引き取った手は、ぐにゃりとして何だか肩から抜けて行きそうだ。
封を切ろうか、切るまいか。だれか来て封を切れと云えば切らぬ理由を説明して、ついでに自分も安心する。しかし人を屈伏させないととうてい自分も屈伏させる事が出来ない。あやふやな柔術使は、一度往来で人を抛《な》げて見ないうちはどうも柔術家たる所以《ゆえん》を自分に証明する道がない。弱い議論と弱い柔術は似たものである。小野さんは京都以来の友人がちょっと遊びに来てくれればいいと思った。
二階の書生がヴァイオリンを鳴らし始めた。小野さんも近日うちにヴァイオリンの稽
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