んで来る。小野さんは東京できりきりと回った。
 きりきりと回った後《あと》で、眼を開けて見ると世界が変っている。眼を擦《こ》すっても変っている。変だと考えるのは悪《わ》るく変った時である。小野さんは考えずに進んで行く。友達は秀才だと云う。教授は有望だと云う。下宿では小野さん小野さんと云う。小野さんは考えずに進んで行く。進んで行ったら陛下から銀時計を賜《たま》わった。浮かび出した藻《も》は水面で白い花をもつ。根のない事には気がつかぬ。
 世界は色の世界である。ただこの色を味《あじわ》えば世界を味わったものである。世界の色は自己の成功につれて鮮《あざ》やかに眼に映《うつ》る。鮮やかなる事錦を欺《あざむ》くに至って生きて甲斐《かい》ある命は貴《とう》とい。小野さんの手巾《ハンケチ》には時々ヘリオトロープの香《におい》がする。
 世界は色の世界である、形は色の残骸《なきがら》である。残骸を論《あげつら》って中味の旨《うま》きを解せぬものは、方円の器《うつわ》に拘《かか》わって、盛り上る酒の泡《あわ》をどう片づけてしかるべきかを知らぬ男である。いかに見極《みきわ》めても皿は食われぬ。唇《くちびる》を着けぬ酒は気が抜ける。形式の人は、底のない道義の巵《さかずき》を抱《いだ》いて、路頭に跼蹐《きょくせき》している。
 世界は色の世界である。いたずらに空華《くうげ》と云い鏡花《きょうか》と云う。真如《しんにょ》の実相とは、世に容《い》れられぬ畸形《きけい》の徒が、容れられぬ恨《うらみ》を、黒※[#「甘+舌」、72−14]郷裏《こくてんきょうり》に晴らすための妄想《もうぞう》である。盲人は鼎《かなえ》を撫《な》でる。色が見えねばこそ形が究《きわ》めたくなる。手のない盲人は撫でる事をすらあえてせぬ。ものの本体を耳目のほかに求めんとするは、手のない盲人の所作《しょさ》である。小野さんの机の上には花が活《い》けてある。窓の外には柳が緑を吹く。鼻の先には金縁の眼鏡《めがね》が掛かっている。
 絢爛《けんらん》の域を超《こ》えて平淡に入《い》るは自然の順序である。我らは昔《むか》し赤ん坊と呼ばれて赤いべべ[#「べべ」に傍点]を着せられた。大抵《たいてい》のものは絵画《にしきえ》のなかに生い立って、四条派《しじょうは》の淡彩から、雲谷《うんこく》流の墨画《すみえ》に老いて、ついに棺桶《かんおけ》のはかなきに親しむ。顧《かえり》みると母がある、姉がある、菓子がある、鯉《こい》の幟《のぼり》がある。顧みれば顧みるほど華麗《はなやか》である。小野さんは趣《おもむき》が違う。自然の径路《けいろ》を逆《さか》しまにして、暗い土から、根を振り切って、日の透《とお》る波の、明るい渚《なぎさ》へ漂《ただよ》うて来た。――坑《あな》の底で生れて一段ごとに美しい浮世へ近寄るためには二十七年かかった。二十七年の歴史を過去の節穴《ふしあな》から覗《のぞ》いて見ると、遠くなればなるほど暗い。ただその途中に一点の紅《くれない》がほのかに揺《うご》いている。東京へ来《き》たてにはこの紅が恋しくて、寒い記憶を繰り返すのも厭《いと》わず、たびたび過去の節穴を覗いては、長き夜《よ》を、永き日を、あるは時雨《しぐ》るるをゆかしく暮らした。今は――紅もだいぶ遠退《とおの》いた。その上、色もよほど褪《さ》めた。小野さんは節穴を覗く事を怠《おこ》たるようになった。
 過去の節穴を塞《ふさ》ぎかけたものは現在に満足する。現在が不景気だと未来を製造する。小野さんの現在は薔薇《ばら》である。薔薇の蕾《つぼみ》である。小野さんは未来を製造する必要はない。蕾《つぼ》んだ薔薇を一面に開かせればそれが自《おのず》からなる彼の未来である。未来の節穴を得意の管《くだ》から眺《なが》めると、薔薇はもう開いている。手を出せば捕《つら》まえられそうである。早く捕まえろと誰かが耳の傍《そば》で云う。小野さんは博士論文を書こうと決心した。
 論文が出来たから博士になるものか、博士になるために論文が出来るものか、博士に聞いて見なければ分らぬが、とにかく論文を書かねばならぬ。ただの論文ではならぬ、必《かなら》ず博士論文でなくてはならぬ。博士は学者のうちで色のもっとも見事なるものである。未来の管を覗くたびに博士の二字が金色《こんじき》に燃えている。博士の傍には金時計が天から懸《かか》っている。時計の下には赤い柘榴石《ガーネット》が心臓の焔《ほのお》となって揺れている。その側《わき》に黒い眼の藤尾さんが繊《ほそ》い腕を出して手招《てまね》ぎをしている。すべてが美くしい画《え》である。詩人の理想はこの画の中の人物となるにある。
 昔《むか》しタンタラスと云う人があった。わるい事をした罰《ばち》で、苛《ひど》い目に逢《お》うたと書いてある
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