たんだがね、表は糸公が着けてくれた」
「本物だ。旨《うま》いもんだ。御糸《おいと》さんは藤尾なんぞと違って実用的に出来ているからいい」
「いいか、ふん。彼奴《あいつ》が嫁に行くと少々困るね」
「いい嫁の口はないかい」
「嫁の口か」と宗近君はちょっと甲野さんを見たが、気の乗らない調子で「無い事もないが……」とだらりと言葉の尾を垂れた。甲野さんは問題を転じた。
「御糸さんが嫁に行くと御叔父《おじ》さんも困るね」
「困ったって仕方がない、どうせいつか困るんだもの。――それよりか君は女房を貰わないのかい」
「僕か――だって――食わす事が出来ないもの」
「だから御母《おっか》さんの云う通りに君が家《うち》を襲《つ》いで……」
「そりゃ駄目だよ。母が何と云ったって、僕は厭《いや》なんだ」
「妙だね、どうも。君が判然しないもんだから、藤尾さんも嫁に行かれないんだろう」
「行かれないんじゃない、行かないんだ」
宗近君はだまって鼻をぴくつかせている。
「また鱧《はも》を食わせるな。毎日鱧ばかり食って腹の中が小骨だらけだ。京都と云う所は実に愚《ぐ》な所だ。もういい加減に帰ろうじゃないか」
「帰ってもいい。鱧ぐらいなら帰らなくってもいい。しかし君の嗅覚《きゅうかく》は非常に鋭敏だね。鱧の臭がするかい」
「するじゃないか。台所でしきりに焼いていらあね」
「そのくらい虫が知らせると阿爺《おやじ》も外国で死ななくっても済んだかも知れない。阿爺は嗅覚が鈍かったと見える」
「ハハハハ。時に御叔父さんの遺物はもう、着いたか知ら」
「もう着いた時分だね。公使館の佐伯《さえき》と云う人が持って来てくれるはずだ。――何にもないだろう――書物が少しあるかな」
「例の時計はどうしたろう」
「そうそう。倫敦《ロンドン》で買った自慢の時計か。あれは多分来るだろう。小供の時から藤尾の玩具《おもちゃ》になった時計だ。あれを持つとなかなか離さなかったもんだ。あの鏈《くさり》に着いている柘榴石《ガーネット》が気に入ってね」
「考えると古い時計だね」
「そうだろう、阿爺が始めて洋行した時に買ったんだから」
「あれを御叔父さんの片身《かたみ》に僕にくれ」
「僕もそう思っていた」
「御叔父さんが今度洋行するときね、帰ったら卒業祝にこれを御前にやろうと約束して行ったんだよ」
「僕も覚えている。――ことによると今頃は藤尾が取ってまた玩具にしているかも知れないが……」
「藤尾さんとあの時計はとうてい離せないか。ハハハハなに構わない、それでも貰おう」
甲野さんは、だまって宗近君の眉《まゆ》の間を、長い事見ていた。御昼の膳《ぜん》の上には宗近君の予言通り鱧《はも》が出た。
四
甲野《こうの》さんの日記の一筋に云う。
「色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず」
小野さんは色を見て世を暮らす男である。
甲野さんの日記の一筋にまた云う。
「生死因縁《しょうしいんねん》無了期《りょうきなし》、色相世界《しきそうせかい》現狂癡《きょうちをげんず》」
小野さんは色相《しきそう》世界に住する男である。
小野さんは暗い所に生れた。ある人は私生児だとさえ云う。筒袖《つつそで》を着て学校へ通う時から友達に苛《いじ》められていた。行く所で犬に吠《ほ》えられた。父は死んだ。外で辛《ひど》い目に遇《あ》った小野さんは帰る家が無くなった。やむなく人の世話になる。
水底《みなそこ》の藻《も》は、暗い所に漂《ただよ》うて、白帆行く岸辺に日のあたる事を知らぬ。右に揺《うご》こうが、左《ひだ》りに靡《なび》こうが嬲《なぶ》るは波である。ただその時々に逆《さか》らわなければ済む。馴《な》れては波も気にならぬ。波は何物ぞと考える暇《ひま》もない。なぜ波がつらく己《おの》れにあたるかは無論問題には上《のぼ》らぬ。上ったところで改良は出来ぬ。ただ運命が暗い所に生《は》えていろと云う。そこで生えている。ただ運命が朝な夕なに動けと云う。だから動いている。――小野さんは水底の藻であった。
京都では孤堂《こどう》先生の世話になった。先生から絣《かすり》の着物をこしらえて貰った。年に二十円の月謝も出して貰った。書物も時々教わった。祇園《ぎおん》の桜をぐるぐる周《まわ》る事を知った。知恩院《ちおんいん》の勅額《ちょくがく》を見上げて高いものだと悟った。御飯も一人前《いちにんまえ》は食うようになった。水底の藻は土を離れてようやく浮かび出す。
東京は目の眩《くら》む所である。元禄《げんろく》の昔に百年の寿《ことぶき》を保ったものは、明治の代《よ》に三日住んだものよりも短命である。余所《よそ》では人が蹠《かかと》であるいている。東京では爪先《つまさき》であるく。逆立《さかだち》をする。横に行く。気の早いものは飛
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