ない。頭上の毛髪が一筋ごとに稲妻《いなずま》を起すためでもない。涙管《るいかん》の関が切れて滂沱《ぼうだ》の観を添うるがためでもない。いたずらに劇烈なるは、壮士が事もなきに剣を舞わして床《ゆか》を斬《き》るようなものである。浅いから動くのである。本郷座の芝居である。甲野さんの笑ったのは舞台で笑ったのではない。
毛筋ほどな細い管を通して、捕《とら》えがたい情《なさ》けの波が、心の底から辛《かろ》うじて流れ出して、ちらりと浮世の日に影を宿したのである。往来に転《ころ》がっている表情とは違う。首を出して、浮世だなと気がつけばすぐ奥の院へ引き返す。引き返す前に、捕《つら》まえた人が勝ちである。捕まえ損《そこ》なえば生涯《しょうがい》甲野さんを知る事は出来ぬ。
甲野さんの笑は薄く、柔らかに、むしろ冷やかである。そのおとなしいうちに、その速《すみや》かなるうちに、その消えて行くうちに、甲野さんの一生は明《あきら》かに描《えが》き出されている。この瞬間の意義を、そうかと合点するものは甲野君の知己《ちき》である。斬《き》った張《は》ったの境に甲野さんを置いて、ははあ、こんな人かと合点《がてん》するようでは親子といえどもいまだしである。兄弟といえども他人である。斬った張ったの境に甲野さんを置いて、始めて甲野さんの性格を描《えが》き出すのは野暮《やぼ》な小説である。二十世紀に斬った張ったがむやみに出て来るものではない。
春の旅は長閑《のどか》である。京の宿は静かである。二人は無事である。ふざけている。その間に宗近君は甲野さんを知り、甲野さんは宗近君を知る。これが世の中である。
「立ん坊か」と云ったまま宗近君は駱駝《らくだ》の膝掛《ひざかけ》の馬簾《ばれん》をひねくり始めたが、やがて
「いつまでも立ん坊か」
と相手の顔は見ず、質問のように、独語《ひとりごと》のように、駱駝の膝掛に話しかけるように、立ん坊を繰り返した。
「立ん坊でも覚悟だけはちゃんとしている」と甲野さんはこの時始めて、腰を浮かして、相手の方に向き直る。
「叔父さんが生きてると好いがな」
「なに、阿爺《おやじ》が生きているとかえって面倒かも知れない」
「そうさなあ」と宗近君はなあ[#「なあ」に傍点]を引っ張った。
「つまり、家《うち》を藤尾にくれてしまえばそれで済むんだからね」
「それで君はどうするんだい」
「僕は立ん坊さ」
「いよいよ本当の立ん坊か」
「うん、どうせ家を襲《つ》いだって立ん坊、襲がなくったって立ん坊なんだからいっこう構わない」
「しかしそりゃ、いかん。第一|叔母《おば》さんが困るだろう」
「母がか」
甲野さんは妙な顔をして宗近君を見た。
疑がえば己《おのれ》にさえ欺《あざ》むかれる。まして己以外の人間の、利害の衢《ちまた》に、損失の塵除《ちりよけ》と被《かぶ》る、面《つら》の厚さは、容易には度《はか》られぬ。親しき友の、わが母を、そうと評するのは、面の内側で評するのか、または外側でのみ云う了見《りょうけん》か。己にさえ、己を欺く魔の、どこにか潜《ひそ》んでいるような気持は免かれぬものを、無二の友達とは云え、父方の縁続きとは云え、迂濶《うかつ》には天機を洩《も》らしがたい。宗近の言《こと》は継母に対するわが心の底を見んための鎌《かま》か。見た上でも元の宗近ならばそれまでであるが、鎌を懸《か》けるほどの男ならば、思う通りを引き出した後《あと》で、どう引っ繰り返らぬとも保証は出来ん。宗近の言は真率《しんそつ》なる彼の、裏表の見界《みさかい》なく、母の口占《くちうら》を一図《いちず》にそれと信じたる反響か。平生《へいぜい》のかれこれから推《お》して見ると多分そうだろう。よもや、母から頼まれて、曇る胸の、われにさえ恐ろしき淵《ふち》の底に、詮索《さぐり》の錘《おもり》を投げ込むような卑劣な振舞はしまい。けれども、正直な者ほど人には使われやすい。卑劣と知って、人の手先にはならんでも、われに対する好意から、見損《みそく》なった母の意を承《う》けて、御互に面白からぬ結果を、必然の期程《きてい》以前に、家庭のなかに打《ぶ》ち開《ま》ける事がないとも限らん。いずれにしても入らぬ口は発《き》くまい。
二人はしばらく無言である。隣家《となり》ではまだ琴《こと》を弾《ひ》いている。
「あの琴は生田流《いくたりゅう》かな」と甲野さんは、つかぬ事を聞く。
「寒くなった、狐の袖無《ちゃんちゃん》でも着よう」と宗近君も、つかぬ事を云う。二人は離れ離れに口を発いている。
丹前の胸を開いて、違棚《ちがいだな》の上から、例の異様な胴衣《チョッキ》を取り下ろして、体《たい》を斜《なな》めに腕を通した時、甲野さんは聞いた。
「その袖無《ちゃんちゃん》は手製か」
「うん、皮は支那に行った友人から貰っ
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