藤尾の表情は忽然《こつぜん》として憎悪《ぞうお》となった。憎悪はしだいに嫉妬《しっと》となった。嫉妬の最も深く刻み込まれた時、ぴたりと化石した。
「まだ妻君じゃない。ないが早晩妻君になる人だ。五年前からの約束だそうだ」
小夜子は泣き腫《は》らした眼を俯《ふ》せたまま、細い首を下げる。藤尾は白い拳《こぶし》を握ったまま、動かない。
「嘘《うそ》です。嘘です」と二遍云った。「小野さんは私《わたし》の夫《おっと》です。私の未来の夫です。あなたは何を云うんです。失礼な」と云った。
「僕はただ好意上事実を報知するまでさ。ついでに小夜子さんを紹介しようと思って」
「わたしを侮辱する気ですね」
化石した表情の裏で急に血管が破裂した。紫色の血は再度の怒《いかり》を満面に注《そそ》ぐ。
「好意だよ。好意だよ。誤解しちゃ困る」と宗近君はむしろ平然としている。――小野さんはようやく口を開いた。――
「宗近君の云うところは一々本当です。これは私の未来の妻に違ありません。――藤尾さん、今日《こんにち》までの私は全く軽薄な人間です。あなたにも済みません。小夜子にも済みません。宗近君にも済みません。今日から改めます。真面目《まじめ》な人間になります。どうか許して下さい。新橋へ行けばあなたのためにも、私のためにも悪いです。だから行かなかったです。許して下さい」
藤尾の表情は三たび変った。破裂した血管の血は真白に吸収されて、侮蔑《ぶべつ》の色のみが深刻に残った。仮面《めん》の形は急に崩《くず》れる。
「ホホホホ」
歇私的里性《ヒステリせい》の笑は窓外の雨を衝《つ》いて高く迸《ほとばし》った。同時に握る拳《こぶし》を厚板の奥に差し込む途端にぬらぬらと長い鎖を引き出した。深紅《しんく》の尾は怪しき光を帯びて、右へ左へ揺《うご》く。
「じゃ、これはあなたには不用なんですね。ようござんす。――宗近さん、あなたに上げましょう。さあ」
白い手は腕をあらわに、すらりと延びた。時計は赭黒《あかぐろ》い宗近君の掌《てのひら》に確《しっか》と落ちた。宗近君は一歩を煖炉に近く大股に開いた。やっと云う掛声と共に赭黒《あかぐろ》い拳が空《くう》に躍《おど》る。時計は大理石の角《かど》で砕けた。
「藤尾さん、僕は時計が欲しいために、こんな酔興《すいきょう》な邪魔をしたんじゃない。小野さん、僕は人の思をかけた女が欲しいから、こんな悪戯《いたずら》をしたんじゃない。こう壊してしまえば僕の精神は君らに分るだろう。これも第一義の活動の一部分だ。なあ甲野さん」
「そうだ」
呆然《ぼうぜん》として立った藤尾の顔は急に筋肉が働かなくなった。手が硬《かた》くなった。足が硬くなった。中心を失った石像のように椅子を蹴返して、床《ゆか》の上に倒れた。
十九
凝《こ》る雲の底を抜いて、小一日《こいちにち》空を傾けた雨は、大地の髄《ずい》に浸《し》み込むまで降って歇《や》んだ。春はここに尽きる。梅に、桜に、桃に、李《すもも》に、かつ散り、かつ散って、残る紅《くれない》もまた夢のように散ってしまった。春に誇るものはことごとく亡《ほろ》ぶ。我《が》の女は虚栄の毒を仰いで斃《たお》れた。花に相手を失った風は、いたずらに亡《な》き人の部屋に薫《かお》り初《そ》める。
藤尾は北を枕に寝る。薄く掛けた友禅《ゆうぜん》の小夜着《こよぎ》には片輪車《かたわぐるま》を、浮世らしからぬ恰好《かっこう》に、染め抜いた。上には半分ほど色づいた蔦《つた》が一面に這《は》いかかる。淋《さみ》しき模様である。動く気色《けしき》もない。敷布団は厚い郡内《ぐんない》を二枚重ねたらしい。塵《ちり》さえ立たぬ敷布《シート》を滑《なめら》かに敷き詰めた下から、粗《あら》い格子《こうし》の黄と焦茶《こげちゃ》が一本ずつ見える。
変らぬものは黒髪である。紫《むらさき》の絹紐《リボン》は取って捨てた。有るたけは、有るに任せて枕に乱した。今日《きょう》までの浮世と思う母は、櫛《くし》の歯も入れてやらぬと見える。乱るる髪は、純白《まっしろ》な敷布《シート》にこぼれて、小夜着《こよぎ》の襟《えり》の天鵞絨《びろうど》に連《つら》なる。その中に仰向《あおむ》けた顔がある。昨日《きのう》の肉をそのままに、ただ色が違う。眉は依然として濃い。眼はさっき母が眠らした。眠るまで母は丹念に撫《さす》ったのである。――顔よりほかは見えぬ。
敷布の上に時計がある。濃《こまやか》に刻んだ七子《ななこ》は無惨《むざん》に潰《つぶ》れてしまった。鎖だけはたしかである。ぐるぐると両蓋《りょうぶた》の縁《ふち》を巻いて、黄金《こがね》の光を五分《ごぶ》ごとに曲折する真中に、柘榴珠《ざくろだま》が、へしゃげた蓋の眼《まなこ》のごとく乗っている。
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