ところへ、雨の中の掛声がした。車が玄関で留った。玄関から足音が近づいて来た。真先に宗近君があらわれた。
「やあ、まだ行かないのか」と甲野さんに聞く。
「うん」と答えたぎりである。
「御叔母《おば》さんもここか、ちょうど好い」と腰を掛ける。後《あと》から小野さんが這入《はい》って来る。小野さんの影を一寸《いっすん》も出ないように小夜子がついてくる。
「御叔母さん、雨の降るのに大入《おおいり》ですよ。――小夜子さん、これが僕の妹です」
活躍の児《じ》は一句にして挨拶《あいさつ》と紹介を兼《かね》る。宗近君は忙しい。甲野さんは依然として額を支えて立ったままである。小野さんも手持無沙汰《てもちぶさた》に席に着かぬ。小夜子と糸子はいたずらに丁寧な頭《つむり》を下げた。打ち解けた言葉は無論交す機会がない。
「雨の降るのに、まあよく……」
母はこれだけの愛嬌《あいきょう》を一面に振り蒔《ま》いた。
「よく降りますね」と宗近君はすぐ答えた。
「小野さんは……」と母が云い懸《か》けた時、宗近君がまた遮《さえぎ》った。
「小野さんは今日藤尾さんと大森へ行く約束があるんだそうですね。ところが行かれなくなって……」
「そう――でも、藤尾はさっき出ましたよ」
「まだ帰らないですか」と宗近君は平気に聞いた。母は少しく不快な顔をする。
「どうして大森どころじゃない」と独語《ひとりごと》のように云ったが、ちょっと振り返って、
「みんな掛けないか。立ってると草臥《くたびれ》るぜ。もう直《じき》藤尾さんも帰るだろう」と注意を与えた。
「さあ、どうぞ」と母が云う。
「小野さん、掛けたまえ。小夜子さんも、どうです。――甲野さん何だい、それは……」
「父の肖像を卸《おろ》しまして、あなた。持って出るとか申して」
「甲野さん、少し待ちたまえ。もう藤尾さんが帰って来るから」
甲野さんは別に返事もしなかった。
「少し私が持ちましょう」と糸子が低い声で云う。
「なに……」と甲野さんは提《さ》げていた額を床《ゆか》の上へ卸して壁へ立て掛けた。小夜子は俯向《うつむ》きながら、そっと額の方を見る。
「なんぞ藤尾に、御用でも御有《おあん》なさるんですか」
これは母の言葉であった。
「ええ、あるんです」
これは宗近の答であった。
あとは――雨が降る。誰も何とも云わない。この時一|輛《りょう》の車はクレオパトラの怒《いかり》を乗せて韋駄天《いだてん》のごとく新橋から馳《か》けて来る。
宗近君は胴衣《ちょっき》の上で、ぱちりと云わした。
「三時二十分」
何とも応《こた》えるものがない。車は千筋《ちすじ》の雨を、黒い幌《ほろ》に弾《はじ》いて一散に飛んで来る。クレオパトラの怒《いかり》は布団《ふとん》の上で躍《おど》り上る。
「御叔母《おば》さん京都の話でも、しましょうかね」
降る雨の地に落ちぬ間《ま》を追い越せと、乗る怒は車夫の背を鞭《むちう》って馳《か》けつける。横に煽《あお》る風を真向《まむき》に切って、歯を逆に捩《ねじ》ると、甲野の門内に敷き詰めた砂利が、玄関先まで長く二行に砕けて来た。
濃い紫《むらさき》の絹紐《リボン》に、怒をあつめて、幌《ほろ》を潜《くぐ》るときに颯《さっ》とふるわしたクレオパトラは、突然と玄関に飛び上がった。
「二十五分」
と宗近君が云い切らぬうちに、怒の権化《ごんげ》は、辱《はずか》しめられたる女王のごとく、書斎の真中に突っ立った。六人の目はことごとく紫の絹紐にあつまる。
「やあ、御帰り」と宗近君が煙草を啣《くわ》えながら云う。藤尾は一言《いちごん》の挨拶《あいさつ》すら返す事を屑《いさぎよし》とせぬ。高い背を高く反《そ》らして、屹《きっ》と部屋のなかを見廻した。見廻した眼は、最後に小野さんに至って、ぐさりと刺さった。小夜子は背広《せびろ》の肩にかくれた。宗近君はぬっと立った。呑み掛けの煙草を、青葡萄《あおぶどう》の灰皿に放《ほう》り込む。
「藤尾さん。小野さんは新橋へ行かなかったよ」
「あなたに用はありません。――小野さん。なぜいらっしゃらなかったんです」
「行っては済まん事になりました」
小野さんの句切りは例になく明暸《めいりょう》であった。稲妻《いなずま》ははたはたとクレオパトラの眸《ひとみ》から飛ぶ。何を猪子才《ちょこざい》なと小野さんの額を射た。
「約束を守らなければ、説明が要《い》ります」
「約束を守ると大変な事になるから、小野さんはやめたんだよ」と宗近君が云う。
「黙っていらっしゃい。――小野さん、なぜいらっしゃらなかったんです」
宗近君は二三歩大股に歩いて来た。
「僕が紹介してやろう」と一足《ひとあし》小野さんを横へ押《お》し退《の》けると、後《うしろ》から小さい小夜子が出た。
「藤尾さん、これが小野さんの妻君だ」
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