らないで、親の家《うち》を出るんだか知らないが、少しは私《わたし》の心持にもなって見てくれないと、私が世間へ対して面目がないじゃないか」
「世間はどうでも構わないです」
「そんな聞訳《ききわけ》のない事を云って、――頑是《がんぜ》ない小供みたように」
「小供なら結構です。小供になれれば結構です」
「またそんな。――せっかく、小供から大人《おとな》になったんじゃないか。これまでに丹精するのは、一と通りや二た通りの事じゃないよ、御前。少しは考えて御覧な」
「考えたから出るんです」
「どうして、まあ、そんな無理を云うんだろうね。――それもこれもみんな私の不行届から起った事だから、今更《いまさら》泣いたって、口説《くど》いたって仕方がないけれども、――私は――亡《な》くなった阿父《おとっ》さんに――」
「阿父さんは大丈夫です。何とも云やしません」
「云やしませんたって――何も、そう、意地にかかって私を苛《いじ》めなくっても宜《よ》さそうなもんじゃないか」
 甲野さんは額を提《さ》げたまま、何とも返事をしなくなった。糸子はおとなしく傍に着いている。雨は部屋を取り巻いて吹き寄せて来る。遠い所から風が音を輳《あつ》めてくる。ざあっと云う高い響である。また広い響である。響の裡《うち》に甲野さんは黙然《もくねん》として立っている。糸子も黙然として立っている。
「少しは分ったかい」と母が聞いた。
 甲野さんは依然として黙している。
「これほど云っても、まだ分らないのかね」
 甲野さんはやはり口を開かない。
「糸子さん、こう云う体《てい》たらくなんですから。どうぞ御宅へ御帰りになったら、阿父さんや兄さんに御覧の通りを御話し下さい。――まことに、こんなところをあなた方に御見せ申すのは、何ともかとも面目しだいもございません」
「御叔母《おば》さん。欽吾さんは出たいのですから、素直に出して御上げなすったら好いでしょう。無理に引っ張っても何にもならないと思います」
「あなたまでそれじゃ仕方がありませんね。――それは失礼ながら、まだ御若いから、そう云う奥底のない御考も出るんでしょうが。――いくら出たいたって、山の中の一軒家に住んでいる人間じゃなし、そう今が今思い立って、今出られちゃ、出る当人より、残ったものが困りまさあね」
「なぜ」
「だって人の口は五月蠅《うるさい》じゃありませんか」
「人が何と云ったって――それがなぜ悪いんでしょう」
「だって御互に世間に顔出しが出来ればこそ、こうやって今日《こんにち》を送っているんじゃありませんか。自分より世間の義理の方が大事でさあね」
「だって、こんなに出たいとおっしゃるんですもの。御可哀想《おかわいそう》じゃありませんか」
「そこが義理ですよ」
「それが義理なの。つまらないのね」
「つまらなかありませんやね」
「だって欽吾さんは、どうなっても構わない……」
「構わなかないんです。それがやっぱり欽吾のためになるんです」
「欽吾さんより御叔母《おば》さんのためになるんじゃないの」
「世の中への義理ですよ」
「分らないわ、私《わたし》には。――出たいものは世間が何と云ったって出たいんですもの。それが御叔母《おば》さんの迷惑になるはずはないわ」
「だって、こんな雨が降って……」
「雨が降っても、御叔母さんは濡《ぬ》れないんだから構わないじゃありませんか」
 汽車のない時の事であった。山の男と海の男が喧嘩《けんか》をした。山の男が魚は塩辛いものだと云う。海の男が魚に塩気があるものかと云う。喧嘩はいつまで立っても鎮《しず》まらなかった。教育と名《なづ》くる汽車がかかって、理性の楷段《かいだん》を自由に上下する方便《ほうべん》が開けないと、御互の考《かんがえ》は御互に分らない。ある時は俗社会の塩漬になり過ぎて、ただ見てさえも冥眩《めんけん》しそうな人間でないと、人間として通用しない事がある。それは嘘《うそ》だ偽《いつわり》だと説いて聞かしてもなかなか承知しない。どこまでも塩漬趣味を主張する。――謎《なぞ》の女と糸子の応対は、どこまで行っても並行するだけで一点には集まらない。山の男と海の男が魚に対して根本的の観念を異《こと》にするごとく、謎の女と糸子とは、人間に対して冒頭《あたま》から考が違う。
 海と山とを心得た甲野さんは黙って二人を見下《みおろ》している。糸子の云うところは弁護の出来ぬほど簡単である。母の主張は愛想《あいそ》のつきるほど愚にしてかつ俗である。この二人の問答を前に控えて、甲野さんは阿爺《おやじ》の額を抱いたまま立っている。別段退屈した気色《けしき》も見えない。焦慮《じれっ》たそうな様子もない。困ったと云う風情《ふぜい》もない。二人の問答が、日暮まで続けば、日暮まで額を持って、同じ姿勢で、立っているだろうと思われる。
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