時だ。君はどうせ行くまい」
「廃《よ》すです」
「藤尾さん一人で大森へ行く事は大丈夫ないね。うちやっておいたら帰ってくるだろう。三時過になれば」
「一分でも後《おく》れたら、待ち合す気遣《きづかい》ありません。すぐ帰るでしょう」
「ちょうど好い。――何だか、降って来たな。雨が降っても行く約束かい」
「ええ」
「この雨は――なかなか歇《や》みそうもない。――とにかく手紙で小夜子さんを呼ぼう。阿父《おやじ》が待ち兼《かね》て心配しているに違ない」
春に似合わぬ強い雨が斜めに降る。空の底は計られぬほど深い。深いなかから、とめどもなく千筋《ちすじ》を引いて落ちてくる。火鉢が欲しいくらいの寒《さむさ》である。
手紙は点滴《てんてき》の響の裡《うち》に認《したた》められた。使が幌《ほろ》の色を、打つ雨に揺《うご》かして、一散に去った時、叙述は移る。最前宗近家の門を出た第二の車はすでに孤堂先生の僑居《きょうきょ》に在《あ》って、応分の使命をつくしつつある。
孤堂先生は熱が出て寝た。秘蔵の義董《ぎとう》の幅《ふく》に背《そむ》いて横《よこた》えた額際《ひたいぎわ》を、小夜子が氷嚢《ひょうのう》で冷している。蹲踞《うずくま》る枕元に、泣き腫《はら》した眼を赤くして、氷嚢の括目《くくりめ》に寄る皺《しわ》を勘定しているかと思われる。容易に顔を上げない。宗近の阿父《おとっ》さんは、鉄線模様《てっせんもよう》の臥被《かいまき》を二尺ばかり離れて、どっしりと尻を据《す》えている。厚い膝頭《ひざがしら》が坐布団《ざぶとん》から喰《は》み出して軽く畳を抑えたところは、血が退《ひ》いて肉が落ちた孤堂先生の顔に比べると威風堂々たるものである。
宗近老人の声は相変らず大きい。孤堂先生の声は常よりは高い。対話はこの両人の間に進行しつつある。
「実はそう云うしだいで突然参上致したので、御不快のところをはなはだ恐縮であるが、取り急ぐ事と、どうか悪しからず」
「いや、はなはだ失礼の体《てい》たらくで、私こそ恐縮で。起きて御挨拶《ごあいさつ》を申し上げなければならんのだが……」
「どう致して、そのままの方が御話がしやすくて結句《けっく》私の都合になります。ハハハハ」
「まことに御親切にわざわざ御尋ね下すってありがたい」
「なに、昔なら武士は相見互《あいみたがい》と云うところで。ハハハハ私などもいつ何時《なんどき》御世話にならんとも限らん。しかし久しぶりで東京へ御移《おうつり》ではさぞ御不自由で御困りだろう」
「二十年目になります」
「二十年目、そりゃあそりゃあ。二《ふ》た昔《むかし》ですな。御親類は」
「無いと同然で。久しい間、音信不通《いんしんふつう》にしておったものですからな」
「なるほど。それじゃ、全く小野|氏《うじ》だけが御力ですな。そりゃ、どうも、怪《け》しからん事になったもので」
「馬鹿を見ました」
「いやしかし、どうにか、なりましょう。そう御心配なさらずとも」
「心配は致しません。ただ馬鹿を見ただけで、先刻《さっき》よく娘にも因果《いんが》を含めて申し聞かしておきました」
「しかしせっかくこれまで御丹精になったものを、そう思い切りよく御断念《おあきらめ》になるのも惜《おし》いから、どうかここはひとまず私共に御任せ下さい。忰《せがれ》も出来るだけ骨を折って見たいと申しておりましたから」
「御好意は実に辱《かたじけ》ない。しかし先方で断わる以上は、娘も参りたくもなかろうし、参ると申しても私がやれんような始末で……」
小夜子は氷嚢《ひょうのう》をそっと上げて、額の露を丁寧に手拭《てぬぐい》でふいた。
「冷やすのは少し休《や》めて見よう。――なあ小夜子行かんでも好いな」
小夜子は氷嚢を盆へ載《の》せた。両手を畳の上へ突いて、盆の上へ蔽《お》いかぶせるように首を出す。氷嚢へぽたりぽたりと涙が垂れる。孤堂先生は枕に着けた胡麻塩頭《ごましおあたま》を
「好いな」と云いながら半分ほど後《うしろ》へ捩《ね》じ向けた。ぽたりと氷嚢へ垂れるところが見えた。
「ごもっともで。ごもっともで……」と宗近老人はとりあえず二遍つづけざまに述べる。孤堂先生の首は故《もと》の位地に復した。潤《うる》んだ眼をひからしてじっと老人を見守っている。やがて
「しかしそれがために小野が藤尾さんとか云う婦人と結婚でもしたら、御子息には御気の毒ですな」と云った。
「いや――そりゃ――御心配には及ばんです。忰は貰わん事にしました。多分――いや貰わんです。貰うと云っても私が不承知です。忰を嫌《きら》うような婦人は、忰が貰いたいと申しても私が許しません」
「小夜や、宗近さんの阿父《おとっ》さんも、ああおっしゃる。同《おんな》じ事だろう」
「私は――参らんでも――宜《よろ》しゅうございます」と小夜子が枕
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