甲野も昨日真面目になった。僕は昨日も、今日も真面目だ。君もこの際一度真面目になれ。人|一人《ひとり》真面目になると当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる。――どうだね、小野さん、僕の云う事は分らないかね」
「いえ、分ったです」
「真面目だよ」
「真面目に分ったです」
「そんなら好い」
「ありがたいです」
「そこでと、――あの浅井と云う男は、まるで人間として通用しない男だから、あれの云う事を一々|真《ま》に受けちゃ大変だが――本来を云うと浅井が来てこれこれだと、あれが僕に話した通《とおり》を君の前で箇条がきにしてでも述べるところだね。そうして、君の云うところと照し合せた上で事実を判断するのが順当かも知れない。いくら頭の悪い僕でもそのくらいな事は知ってる。しかし真面目になると、ならないとは大問題だ。契約があったの、滑《すべ》ったの転《ころ》んだの。嫁があっちゃあ博士になれないの、博士にならなくっちゃ外聞が悪いのって、まるで小供見たような事は、どっちがどっちだって構わないだろう、なあ君」
「ええ構わないです」
「要するに真面目な処置は、どうつければ好いのかね。そこが君のやるところだ。邪魔でなければ相談になろう。奔走しても好い」
悄然《しょうぜん》として項垂《うなだ》れていた小野さんは、この時居ずまいを正《ただ》した。顔を上げて宗近君を真向《まむき》に見る。眸《ひとみ》は例になく確乎《しっか》と坐っていた。
「真面目な処置は、出来るだけ早く、小夜子と結婚するのです。小夜子を捨てては済まんです。孤堂先生にも済まんです。僕が悪かったです。断わったのは全く僕が悪かったです。君に対しても済まんです」
「僕に済まん? まあそりゃ好い、後《あと》で分る事だから」
「全く済まんです。――断わらなければ好かったです。断わらなければ――浅井はもう断わってしまったんでしょうね」
「そりゃ君が頼んだ通り断わったそうだ。しかし井上さんは君自身に来て断われと云うそうだ」
「じゃ、行きます。これから、すぐ行って謝罪《あやま》って来ます」
「だがね、今僕の阿父《おやじ》を井上さんの所へやっておいたから」
「阿父《おとっ》さんを?」
「うん、浅井の話によると、何でも大変怒ってるそうだ。それから御嬢さんはひどく泣いてると云うからね。僕が君のうちへ来て相談をしているうちに、何か事でも起ると困るから慰問《なぐさめ》かたがたつなぎにやっておいた」
「どうもいろいろ御親切に」と小野さんは畳に近く頭を下げた。
「なに老人はどうせ遊んでいるんだから、御役にさえ立てば喜んで何でもしてくれる。それで、こうしておいたんだがね、――もし談判が調《ととの》えば、車で御嬢さんを呼びにやるからこっちへ寄こしてくれって。――来たら、僕のいる前で、御嬢さんに未来の細君だと君の口から明言してやれ」
「やります。こっちから行っても好いです」
「いや、ここへ呼ぶのはまだほかにも用があるからだ。それが済んだら三人で甲野へ行くんだよ。そうして藤尾さんの前で、もう一遍君が明言するんだ」
小野さんは少しく※[#「やまいだれ+(鼾−自−干)」、第4水準2−81−55]《ひる》んで見えた。宗近君はすぐつける。
「何、僕が君の妻君を藤尾さんに紹介してもいい」
「そう云う必要があるでしょうか」
「君は真面目になるんだろう。――僕の前で奇麗《きれい》に藤尾さんとの関係を絶って見せるがいい。その証拠に小夜子さんを連れて行くのさ」
「連れて行っても好いですが、あんまり面当《つらあて》になるから――なるべくなら穏便《おんびん》にした方が……」
「面当は僕も嫌《きらい》だが、藤尾さんを助けるためだから仕方がない。あんな性格は尋常の手段じゃ直せっこない」
「しかし……」
「君が面目ないと云うのかね。こう云う羽目《はめ》になって、面目ないの、きまりが悪いのと云ってぐずぐずしているようじゃやっぱり上皮《うわかわ》の活動だ。君は今真面目になると云ったばかりじゃないか。真面目と云うのはね、僕に云わせると、つまり実行の二字に帰着するのだ。口だけで真面目になるのは、口だけが真面目になるので、人間が真面目になったんじゃない。君と云う一個の人間が真面目になったと主張するなら、主張するだけの証拠を実地に見せなけりゃ何にもならない。……」
「じゃやりましょう。どんな大勢の中でも構わない、やりましょう」
「宜《よ》ろしい」
「ところで、みんな打ち明けてしまいますが。――実は今日大森へ行く約束があるんです」
「大森へ。誰と」
「その――今の人とです」
「藤尾さんとかね。何時《なんじ》に」
「三時に停車場《ステーション》で出合うはずになっているんですが」
「三時と――今何時か知らん」
ぱちりと宗近君の胴衣《チョッキ》の中ほどで音がした。
「もう二
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