君に対して全然無効になる訳だ」
 小野さんはまだ黙っている。
「僕はいくら閑人《ひまじん》だって、君に軽蔑《けいべつ》されようと思って車を飛ばして来やしない。――とにかく浅井の云う通なんだろうね」
「浅井がどう云いましたか」
「小野さん、真面目《まじめ》だよ。いいかね。人間は年《ねん》に一度ぐらい真面目にならなくっちゃならない場合がある。上皮《うわかわ》ばかりで生きていちゃ、相手にする張合《はりあい》がない。また相手にされてもつまるまい。僕は君を相手にするつもりで来たんだよ。好いかね、分ったかい」
「ええ、分りました」と小野さんはおとなしく答えた。
「分ったら君を対等の人間と見て云うがね。君はなんだか始終不安じゃないか。少しも泰然としていないようだが」
「そうかも――知れないです」と小野さんは術《じゅつ》なげながら、正直に白状した。
「そう君が平たく云うと、はなはだ御気の毒だが、全く事実だろう」
「ええ」
「他人《ひと》が不安であろうと、泰然としていなかろうと、上皮《うわかわ》ばかりで生きている軽薄な社会では構った事じゃない。他人《ひと》どころか自分自身が不安でいながら得意がっている連中もたくさんある。僕もその一人《いちにん》かも知れない。知れないどころじゃない、たしかにその一人だろう」
 小野さんはこの時始めて積極的に相手を遮《さえ》ぎった。
「あなたは羨《うらやま》しいです。実はあなたのようになれたら結構だと思って、始終考えてるくらいです。そんなところへ行くと僕はつまらない人間に違ないです」
 愛嬌《あいきょう》に調子を合せるとは思えない。上皮の文明は破れた。中から本音《ほんね》が出る。悄然《しょうぜん》として誠を帯びた声である。
「小野さん、そこに気がついているのかね」
 宗近君の言葉には何だか暖味《あたたかみ》があった。
「いるです」と答えた。しばらくしてまた、
「いるです」と答えた。下を向く。宗近君は顔を前へ出した。相手は下を向いたまま、
「僕の性質は弱いです」と云った。
「どうして」
「生れつきだから仕方がないです」
 これも下を向いたまま云う。
 宗近君はなおと顔を寄せる。片膝を立てる。膝の上に肱《ひじ》を乗せる。肱で前へ出した顔を支える。そうして云う。
「君は学問も僕より出来る。頭も僕より好い。僕は君を尊敬している。尊敬しているから救いに来た」
「救いに……」と顔を上げた時、宗近君は鼻の先にいた。顔を押しつけるようにして云う。――
「こう云う危《あや》うい時に、生れつきを敲《たた》き直して置かないと、生涯《しょうがい》不安でしまうよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しはつかない。ここだよ、小野さん、真面目《まじめ》になるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。皮《かわ》だけで生きている人間は、土《つち》だけで出来ている人形とそう違わない。真面目がなければだが、あるのに人形になるのはもったいない。真面目になった後《あと》は心持がいいものだよ。君にそう云う経験があるかい」
 小野さんは首を垂れた。
「なければ、一つなって見たまえ、今だ。こんな事は生涯に二度とは来ない。この機をはずすと、もう駄目だ。生涯|真面目《まじめ》の味を知らずに死んでしまう。死ぬまでむく犬のようにうろうろして不安ばかりだ。人間は真面目になる機会が重なれば重なるほど出来上ってくる。人間らしい気持がしてくる。――法螺《ほら》じゃない。自分で経験して見ないうちは分らない。僕はこの通り学問もない、勉強もしない、落第もする、ごろごろしている。それでも君より平気だ。うちの妹なんぞは神経が鈍いからだと思っている。なるほど神経も鈍いだろう。――しかしそう無神経なら今日でも、こうやって車で馳《か》けつけやしない。そうじゃないか、小野さん」
 宗近君はにこりと笑った。小野さんは笑わなかった。
「僕が君より平気なのは、学問のためでも、勉強のためでも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰が据《すわ》る事はない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が儼存《げんそん》していると云う観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。やっつけなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者《こうしゃ》に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾《いかん》なく世の中へ敲《たた》きつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。実を云うと僕の妹も昨日《きのう》真面目になった。
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