の後《うしろ》で切れ切れに云った。雨の音の強いなかでようやく聞き取れる。
「いや、そうなっちゃ困る。私がわざわざ飛んで来た甲斐《かい》がない。小野|氏《うじ》にもだんだん事情のある事だろうから、まあ忰《せがれ》の通知しだいで、どうか、先刻御話を申したように御聞済《おききずみ》を願いたい。――自分で忰の事をかれこれ申すのは異《い》なものだが、忰は事理《わけ》の分った奴で、けっして後で御迷惑になるような取計《とりはからい》は致しますまい。御破談になった方が御為だと思えばその方を御勧めして来るでしょう。――始めて御目に懸《かか》ったのだがどうか私を御信用下さい。――もう何とか云って来る時分だが、あいにくの雨で……」
雨を衝《つ》く一|輛《りょう》の車は輪を鳴らして、格子《こうし》の前で留った。がらりと明《あ》く途端に、ぐちゃりと濡《ぬ》れた草鞋《わらじ》を沓脱《くつぬぎ》へ踏み込んだものがある。――叙述は第三の車の使命に移る。
第三の車が糸子を載《の》せたまま、甲野の門に※[#「車+隣のつくり」、第3水準1−92−48]々《りんりん》の響を送りつつ馳《か》けて来る間に、甲野さんは書斎を片づけ始めた。机の抽出《ひきだし》を一つずつ抜いて、いつとなく溜った往復の書類を裂いては捨て、裂いては捨る。床《ゆか》の上は千切れた半切《はんきれ》で膝の所だけが堆《うずたか》くなった。甲野さんは乱るる反故屑《ほごくず》を踏みつけて立った。今度は抽出《ひきだし》から一枚、二枚と細字《さいじ》に認《したた》めた控を取り出す。中には五六|頁《ページ》纏《まと》めて綴じ込んだのもある。大抵は西洋紙である。また西洋字である。甲野さんは一と目見て、すぐ机の上へ重ねる。中には半行も読まずに置き易《か》えるのもある。しばらくすると、重《かさ》なるものは小一尺の高《たかさ》まで来た。抽出は大抵《たいてい》空《から》になる。甲野さんは上下《うえした》へ手を掛けて、総体を煖炉の傍《そば》まで持って来たが、やがて、無言のまま抛《な》げ込《こ》んだ。重なるものは主人公の手を離るると共に一面に崩《くず》れた。
葡萄《ぶどう》の葉を青銅に鋳《い》た灰皿が洋卓《テエブル》の上にある。灰皿の上に燐寸《マッチ》がある。甲野さんは手を延ばして燐寸の箱を取った。取りながら横に振ると、あたじけない五六本の音がする。今度は机へ帰る。レオパルジの隣にあった黄表紙《きびょうし》の日記を持って煖炉の前まで戻って来た。親指を抑えにして小口を雨のように飛ばして見ると、黒い印気《インキ》と鼠《ねずみ》の鉛筆が、ちら、ちら、ちらと黄色い表紙まで来て留った。何を書いたものやらいっこう要領を得ない。昨夕《ゆうべ》寝る前に書き込んだ、
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|入[#レ]道《みちにいる》無言客《むごんのかく》。|出[#レ]家《いえをいず》有髪僧《うはつのそう》。
[#ここで字下げ終わり]
の一聯が、最後の頁の最後の句である事だけを記憶している。甲野さんは思い切って日記を散らばった紙の上へ乗せた。屈《しゃが》んだ。煖炉敷《ハースラッグ》の前でしゅっと云う音がする。乱れた紙は、静なるうちに、惓怠《けったる》い伸《のび》をしながら、下から暖められて来る。きな臭い煙が、紙と紙の隙間《すきま》を這《は》い上《のぼ》って出た。すると紙は下層《したがわ》の方から動き出した。
「うん、まだ書く事があった」
と甲野さんは膝を立てながら、日記を煙のなかから救い出す。紙は茶に変る。ぼうと音がすると煖炉のうちは一面の火になった。
「おや、どうしたの」
戸口に立った母は不審そうに煖炉の中を見詰めている。甲野さんは声に応じて体《たい》を斜めに開く。袂《たもと》の先に火を受けて母と向き合った。
「寒いから部屋を煖《あたた》めます」と云ったなり、上から煖炉の中を見下《みおろ》した。火は薄い水飴《みずあめ》の色に燃える。藍《あい》と紫《むらさき》が折々は思い出したように交って煙突の裏《うち》へ上《のぼ》って行く。
「まあ御あたんなさい」
折から風に誘われた雨が四五筋、窓硝子《まどガラス》に当って砕けた。
「降り出しましたね」
母は返事をせずに三足《みあし》ほど部屋の中に進んで来た。すかすように欽吾を見て、
「寒ければ、石炭を焼《た》かせようか」と云った。
めらめらと燃えた火は、揺《ゆら》ぐ紫の舌の立ち騰《のぼ》る後《あと》から、ぱっと一度に消えた。煖炉の中は真黒である。
「もうたくさんです。もう消えました」
云い終った欽吾は、煖炉に背中を向けた。時に亡父《おやじ》の眼玉が壁の上からぴかりと落ちて来た。雨の音がざあっとする。
「おやおや、手紙が大変散らばって――みんな要《い》らないのかい」
欽吾は床《ゆか》の上を眺《なが》めた。裂
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