霞《かす》んで見える。
「藤尾」と知らぬ御母《おっか》さんは呼ぶ。
男はやっと寛容《くつろい》だ姿で、呼ばれた方へ視線を向ける。呼ばれた当人は俯向《うつむい》ている。
「藤尾」と御母さんは呼び直す。
女の眼はようやくに頁を離れた。波を打つ廂髪《ひさしがみ》の、白い額に接《つづ》く下から、骨張らぬ細い鼻を承《う》けて、紅《くれない》を寸《すん》に織る唇が――唇をそと滑《すべ》って、頬《ほお》の末としっくり落ち合う※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]《あご》が――※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]を棄《す》ててなよやかに退《ひ》いて行く咽喉《のど》が――しだいと現実世界に競《せ》り出して来る。
「なに?」と藤尾は答えた。昼と夜の間に立つ人の、昼と夜の間の返事である。
「おや気楽な人だ事。そんなに面白い御本なのかい。――あとで御覧なさいな。失礼じゃないか。――この通り世間見ずのわがままもので、まことに困り切ります。――その御本は小野さんから拝借したのかい。大変|奇麗《きれい》な――汚《よご》さないようになさいよ。本なぞは大事にしないと――」
「大事にしていますわ」
「それじゃ、好いけれども、またこないだのように……」
「だって、ありゃ兄さんが悪いんですもの」
「甲野君がどうかしたんですか」と小野さんは始めて口らしい口を開《ひら》いた。
「いえ、あなた、どうもわがまま者《もの》の寄り合いだもんでござんすから、始終《しじゅう》、小供のように喧嘩《けんか》ばかり致しまして――こないだも兄の本を……」と御母さんは藤尾の方を見て、言おうか、言うまいかと云う態度を取る。同情のある恐喝《きょうかつ》手段は長者《ちょうしゃ》の好んで年少に対して用いる遊戯である。
「甲野君の書物をどうなすったんです」と小野さんは恐る恐る聞きたがる。
「言いましょうか」と老人は半ば笑いながら、控えている。玩具《おもちゃ》の九寸五分を突き付けたような気合である。
「兄の本を庭へ抛《な》げたんですよ」と藤尾は母を差し置いて、鋭どい返事を小野さんの眉間《みけん》へ向けて抛《な》げつけた。御母さんは苦笑《にがわら》いをする。小野さんは口を開《あ》く。
「これの兄も御存じの通り随分変人ですから」と御母《おっか》さんは遠廻しに棄鉢《すてばち》になった娘の御機嫌をとる。
「甲野さんはまだ御帰りにならんそうですね」と小野さんは、うまいところで話頭を転換した。
「まるであなた鉄砲玉のようで――あれも、始終《しじゅう》身体《からだ》が悪いとか申して、ぐずぐずしておりますから、それならば、ちと旅行でもして判然《はきはき》したらよかろうと申しましてね――でも、まだ、何だかだと駄々を捏《こ》ねて、動かないのを、ようやく宗近に頼んで連れ出して貰《もら》いました。ところがまるで鉄砲玉で。若いものと申すものは……」
「若いって兄さんは特別ですよ。哲学で超絶しているんだから特別ですよ」
「そうかね、御母さんには何だか分らないけれども――それにあなた、あの宗近と云うのが大の呑気屋《のんきや》で、あれこそ本当の鉄砲玉で、随分の困りものでしてね」
「アハハハ快活な面白い人ですな」
「宗近と云えば、御前《おまい》さっきのものはどこにあるのかい」と御母さんは、きりりとした眼を上げて部屋のうちを見廻わす。
「ここです」と藤尾は、軽く諸膝《もろひざ》を斜《なな》めに立てて、青畳の上に、八反《はったん》の座布団《ざぶとん》をさらりと滑《す》べらせる。富貴《ふうき》の色は蜷局《とぐろ》を三重に巻いた鎖の中に、堆《うずたか》く七子《ななこ》の蓋《ふた》を盛り上げている。
右手を伸《の》べて、輝くものを戛然《かつぜん》と鳴らすよと思う間《ま》に、掌《たなごころ》より滑る鎖が、やおら畳に落ちんとして、一尺の長さに喰《く》い留《と》められると、余る力を横に抜いて、端《はじ》につけた柘榴石《ガーネット》の飾りと共に、長いものがふらりふらりと二三度揺れる。第一の波は紅《くれない》の珠《たま》に女の白き腕《かいな》を打つ。第二の波は観世《かんぜ》に動いて、軽く袖口《そでくち》にあたる。第三の波のまさに静まらんとするとき、女は衝《つ》と立ち上がった。
奇麗な色が、二色、三色入り乱れて、疾《と》く動く景色《けしき》を、茫然《ぼうぜん》と眺《なが》めていた小野さんの前へぴたりと坐った藤尾は
「御母《おかあ》さん」と後《うしろ》を顧《かえり》みながら、
「こうすると引き立ちますよ」と云って故《もと》の席に返る。小野さんの胴衣《チョッキ》の胸には松葉形に組んだ金の鎖が、釦《ボタン》の穴を左右に抜けて、黒ずんだメルトン地を背景に燦爛《さんらん》と耀《かが》やいている。
「どうです」と藤尾が云う。
「なるほど善《よ》く似合い
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