そり閑《かん》と吹かれている。
 小野さんは黙然《もくねん》と香炉《こうろ》を見て、また黙然と布団を見た。崩《くず》し格子《ごうし》の、畳から浮く角に、何やら光るものが奥に挟《はさ》まっている。小野さんは少し首を横にして輝やくものを物色して考えた。どうも時計らしい。今までは頓《とん》と気がつかなかった。藤尾の立つ時に、絹障《きぬざわり》のしなやかに、布団《ふとん》が擦《ず》れて、隠したものが出掛ったのかも知れぬ。しかし布団の下に時計を隠す必要はあるまい。小野さんは再び布団の下を覗《のぞ》いて見た。松葉形《まつばがた》に繋《つな》ぎ合せた鎖の折れ曲って、表に向いている方が、細く光線を射返す奥に、盛り上がる七子《ななこ》の縁《ふち》が幽《かす》かに浮いている。たしかに時計に違ない。小野さんは首を傾けた。
 金は色の純にして濃きものである。富貴《ふうき》を愛するものは必ずこの色を好む。栄誉を冀《こいねが》うものは必ずこの色を撰《えら》む。盛名を致すものは必ずこの色を飾る。磁石《じしゃく》の鉄を吸うごとく、この色はすべての黒き頭を吸う。この色の前に平身せざるものは、弾力なき護謨《ゴム》である。一個の人として世間に通用せぬ。小野さんはいい色だと思った。
 折柄《おりから》向う座敷の方角から、絹のざわつく音が、曲《ま》がり椽《えん》を伝わって近づいて来る。小野さんは覗《のぞ》き込んだ眼を急に外《そ》らして、素知らぬ顔で、容斎《ようさい》の軸《じく》を真正面に眺めていると、二人の影が敷居口にあらわれた。
 黒縮緬《くろちりめん》の三つ紋を撫《な》で肩《がた》に着こなして、くすんだ半襟《はんえり》に、髷《まげ》ばかりを古風につやつやと光らしている。
「おやいらっしゃい」と御母《おっか》さんは軽く会釈《えしゃく》して、椽に近く座を占める。鶯《うぐいす》も鳴かぬ代りに、目に立つほどの塵もなく掃除の行き届いた庭に、長過ぎるほどの松が、わが物顔に一本控えている。この松とこの御母さんは、何となく同一体のように思われる。
「藤尾が始終《しじゅう》御厄介《ごやっかい》になりまして――さぞわがままばかり申す事でございましょう。まるで小供でございますから――さあ、どうぞ御楽《おらく》に――いつも御挨拶《ごあいさつ》を申さねばならんはずでございますが、つい年を取っているものでございますから、失礼のみ致します。――どうも実に赤児《ねんね》で、困り切ります、駄々ばかり捏《こ》ねまして――でも英語だけは御蔭《おかげ》さまで大変好きな模様で――近頃ではだいぶむずかしいものが読めるそうで、自分だけはなかなか得意でおります。――何兄がいるのでございますから、教えて貰えば好いのでございますが、――どうも、その、やっぱり兄弟は行《ゆ》かんものと見えまして――」
 御母さんの弁舌は滾々《こんこん》としてみごとである。小野さんは一字の間投詞を挟《さしはさ》む遑《いと》まなく、口車《くちぐるま》に乗って馳《か》けて行く。行く先は固《もと》より判然せぬ。藤尾は黙って最前小野さんから借りた書物を開いて続《つづき》を読んでいる。
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「花を墓に、墓に口を接吻《くちづけ》して、憂《う》きわれを、ひたふるに嘆きたる女王は、浴湯《ゆ》をこそと召す。浴《ゆあ》みしたる後《のち》は夕餉《ゆうげ》をこそと召す。この時|賤《いや》しき厠卒《こもの》ありて小さき籃《かご》に無花果《いちじく》を盛りて参らす。女王の該撒《シイザア》に送れる文《ふみ》に云う。願わくは安図尼《アントニイ》と同じ墓にわれを埋《うず》めたまえと。無花果《いちじく》の繁れる青き葉陰にはナイルの泥《つち》の※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》の舌《した》を冷やしたる毒蛇《どくだ》を、そっと忍ばせたり。該撒《シイザア》の使は走る。闥《たつ》を排して眼《まなこ》を射れば――黄金《こがね》の寝台に、位高き装《よそおい》を今日と凝《こ》らして、女王の屍《しかばね》は是非なく横《よこた》わる。アイリスと呼ぶは女王の足のあたりにこの世を捨てぬ。チャーミオンと名づけたるは、女王の頭《かしら》のあたりに、月黒き夜《よ》の露をあつめて、千顆《せんか》の珠《たま》を鋳たる冠《かんむり》の、今落ちんとするを力なく支う。闥を排したる該撒の使はこはいかにと云う。埃及《エジプト》の御代《みよ》しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと、チャーミオンは言い終って、倒れながらに目を瞑《ねむ》る」
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 埃及の御代しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと云う最後の一句は、焚《た》き罩《こ》むる錬香《ねりこう》の尽きなんとして幽《かす》かなる尾を虚冥《きょめい》に曳《ひ》くごとく、全《まった》き頁《ページ》が淡く
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