ますね」と御母《おっか》さんが云う。
「全体どうしたんです」と小野さんは煙《けむ》に巻かれながら聞く。御母さんはホホホと笑う。
「上げましょうか」と藤尾は流し目に聞いた。小野さんは黙っている。
「じゃ、まあ、止《よ》しましょう」と藤尾は再び立って小野さんの胸から金時計を外《はず》してしまった。
三
柳《やなぎ》※[#「享+單」、第4水準2−4−50]《た》れて条々《じょうじょう》の煙を欄《らん》に吹き込むほどの雨の日である。衣桁《いこう》に懸《か》けた紺《こん》の背広の暗く下がるしたに、黒い靴足袋《くつたび》が三分一《さんぶいち》裏返しに丸く蹲踞《うずくま》っている。違棚《ちがいだな》の狭《せま》い上に、偉大な頭陀袋《ずだぶくろ》を据《す》えて、締括《しめくく》りのない紐《ひも》をだらだらと嬾《ものうく》も垂らした傍《かたわ》らに、錬歯粉《ねりはみがき》と白楊子《しろようじ》が御早うと挨拶《あいさつ》している。立て切った障子《しょうじ》の硝子《ガラス》を通して白い雨の糸が細長く光る。
「京都という所は、いやに寒い所だな」と宗近《むねちか》君は貸浴衣《かしゆかた》の上に銘仙《めいせん》の丹前を重ねて、床柱《とこばしら》の松の木を背負《しょっ》て、傲然《ごうぜん》と箕坐《あぐら》をかいたまま、外を覗《のぞ》きながら、甲野《こうの》さんに話しかけた。
甲野さんは駱駝《らくだ》の膝掛《ひざかけ》を腰から下へ掛けて、空気枕の上で黒い頭をぶくつかせていたが
「寒いより眠い所だ」
と云いながらちょっと顔の向《むき》を換えると、櫛《くし》を入れたての濡《ぬ》れた頭が、空気の弾力で、脱ぎ棄てた靴足袋《くつたび》といっしょになる。
「寝てばかりいるね。まるで君は京都へ寝《ね》に来たようなものだ」
「うん。実に気楽な所だ」
「気楽になって、まあ結構だ。御母《おっか》さんが心配していたぜ」
「ふん」
「ふんは御挨拶だね。これでも君を気楽にさせるについては、人の知らない苦労をしているんだぜ」
「君あの額《がく》の字が読めるかい」
「なるほど妙だね。※[#「にんべん+孱」、51−3]雨※[#「にんべん+愁」、51−3]風《せんうしゅうふう》か。見た事がないな。何でも人扁《にんべん》だから、人がどうかするんだろう。いらざる字を書きやがる。元来何者だい」
「分らんね」
「分からんでもいいや、それよりこの襖《ふすま》が面白いよ。一面に金紙《きんがみ》を張り付けたところは豪勢だが、ところどころに皺《しわ》が寄ってるには驚ろいたね。まるで緞帳芝居《どんちょうしばい》の道具立《どうぐだて》見たようだ。そこへ持って来て、筍《たけのこ》を三本、景気に描《か》いたのは、どう云う了見《りょうけん》だろう。なあ甲野さん、これは謎《なぞ》だぜ」
「何と云う謎だい」
「それは知らんがね。意味が分からないものが描《か》いてあるんだから謎だろう」
「意味が分からないものは謎にはならんじゃないか。意味があるから謎なんだ」
「ところが哲学者なんてものは意味がないものを謎だと思って、一生懸命に考えてるぜ。気狂《きちがい》の発明した詰将棋《つめしょうぎ》の手を、青筋を立てて研究しているようなものだ」
「じゃこの筍も気違の画工《えかき》が描いたんだろう」
「ハハハハ。そのくらい事理《じり》が分ったら煩悶《はんもん》もなかろう」
「世の中と筍といっしょになるものか」
「君、昔話《むかしばな》しにゴージアン・ノットと云うのがあるじゃないか。知ってるかい」
「人を中学生だと思ってる」
「思っていなくっても、まあ聞いて見るんだ。知ってるなら云って見ろ」
「うるさいな、知ってるよ」
「だから云って御覧なさいよ。哲学者なんてものは、よくごまかすもので、何を聞いても知らないと白状の出来ない執念深《しゅうねんぶか》い人間だから、……」
「どっちが執念深いか分りゃしない」
「どっちでも、いいから、云って御覧」
「ゴージアン・ノットと云うのはアレキサンダー時代の話しさ」
「うん、知ってるね。それで」
「ゴージアスと云う百姓がジュピターの神へ車を奉納《ほうのう》したところが……」
「おやおや、少し待った。そんな事があるのかい。それから」
「そんな事があるのかって、君、知らないのか」
「そこまでは知らなかった」
「何だ。自分こそ知らない癖に」
「ハハハハ学校で習った時は教師がそこまでは教えなかった。あの教師もそこまではきっと知らないに違ない」
「ところがその百姓が、車の轅《ながえ》と横木を蔓《かずら》で結《ゆわ》いた結び目を誰がどうしても解《と》く事が出来ない」
「なあるほど、それをゴージアン・ノットと云うんだね。そうか。その結目《ノット》をアレキサンダーが面倒臭いって、刀を抜いて切っちまった
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