から云えば大事な娘だ。人一人殺しても博士になる気かと小野に聞いてくれ。それから、そう云ってくれ。井上孤堂は法律上の契約よりも徳義上の契約を重んずる人間だって。――月々金を貢《みつ》いでやる? 貢いでくれと誰が頼んだ。小野の世話をしたのは、泣きついて来て可愛想《かわいそう》だから、好意ずくでした事だ。何だ物質的の補助をするなんて、失礼千万な。――小夜や、用があるからちょっと出て御出、おいいないのか」
 小夜子は襖の蔭で啜《すす》り泣《なき》をしている。先生はしきりに咳《せ》く。浅井君は面喰《めんくら》った。
 こう怒られようとは思わなかった。またこう怒られる訳がない。自分の云う事は事理明白である。世間に立って成功するには誰の目にも博士号は大切である。瞹眛《あいまい》な約束をやめてくれと云うのもさほど不義理とは受取れない。世話をして貰いっ放しでは不都合かも知れないが、して貰っただけの事を物質的に返すと云い出せば、喜んでこっちの義務心を満足させべきはずである。それを突然怒り出す。――そこで浅井君は面喰った。
「先生そう怒っちゃ困ります。悪ければまた小野に逢《あ》って話して見ますから」と云った。これは本気の沙汰《さた》である。
 しばらく黙っていた先生は、やや落ちついた調子で、
「君は結婚を極《きわ》めて容易《たやすい》事のように考えているが、そんなものじゃない」と口惜《くちおし》そうに云う。
 先生の云う主意は分らんが、先生の様子にはさすがの浅井君も少し心を動かした。しかし結婚は便宜《べんぎ》によって約束を取り結び、便宜によって約束を破棄するだけで差支《さしつかえ》ないと信じている浅井君は、別に返事もしなかった。
「君は女の心を知らないから、そんな使に来たんだろう」
 浅井君はやっぱり黙っている。
「人情を知らないから平気でそんな事を云うんだろう。小野の方が破談になれば小夜は明日《あした》からどこへでも行けるだろうと思って、云うんだろう。五年以来|夫《おっと》だと思い込んでいた人から、特別の理由もないのに、急に断わられて、平気ですぐ他家《わき》へ嫁に行くような女があるものか。あるかも知れないが小夜はそんな軽薄な女じゃない。そんな軽薄に育て上げたつもりじゃない。――君はそう軽卒に破談の取次をして、小夜の生涯《しょうがい》を誤まらして、それで好い心持なのか」
 先生の窪《くぼ》んだ眼が煮染《にじ》んで来た。しきりに咳が出る。浅井君はなるほどそれが事実ならと感心した。ようやく気の毒になってくる。
「じゃ、まあ御待ちなさい、先生。もう一遍小野に話して見ますから。僕はただ頼まれたから来たんで、そんな精《くわ》しい事情は知らんのですから」
「いや、話してくれないでも好い。厭《いや》だと云うものに無理に貰ってもらいたくはない。しかし本人が来て自家《じか》に訳を話すが好い」
「しかし御嬢さんが、そう云う御考だと……」
「小夜の考《かんがえ》ぐらい小野には分っているはずださ」と先生は平手《ひらて》で頬を打つように、ぴしゃりと云った。
「ですがな、それだと小野も困るでしょうから、もう一遍……」
「小野にそう云ってくれ。井上孤堂はいくら娘が可愛くっても、厭だと云う人に頭を下げて貰ってもらうような卑劣な男ではないって。――小夜や、おい、いないか」
 襖《ふすま》の向側《むこうがわ》で、袖《そで》らしいものが唐紙《からかみ》の裾《すそ》にあたる音がした。
「そう返事をして差支《さしつかえ》ないだろうね」
 答はさらになかった。ややあって、わっと云う顔を袖の中に埋《うず》めた声がした。
「先生もう一遍小野に話しましょう」
「話さないでも好い。自家に来て断われと云ってくれ」
「とにかく……そう小野に云いましょう」
 浅井君はついに立った。玄関まで送って来た先生に頭を下げた時、先生は
「娘なんぞ持つもんじゃないな」と云った。表へ出た浅井君はほっと息をつく。今までこんな感じを経験した事はない。横町を出て蕎麦屋《そばや》の行灯《あんどう》を右に通へ出て、電車のある所まで来ると突然飛び乗った。
 突然電車に乗った浅井君は約一時間|余《よ》の後《のち》、ぶらりと宗近《むねちか》家の門からあらわれた。つづいて車が二挺出る。一挺は小野の下宿へ向う。一挺は孤堂先生の家に去る。五十分ほど後《おく》れて、玄関の松の根際に梶棒《かじぼう》を上げた一挺は、黒い幌《ほろ》を卸《おろ》したまま、甲野《こうの》の屋敷を指して馳《か》ける。小説はこの三挺の使命を順次に述べなければならぬ。
 宗近君の車が、小野さんの下宿の前で、車輪《は》の音《おと》を留めた時、小野さんはちょうど午飯《ひるめし》を済ましたばかりである。膳《ぜん》が出ている。飯櫃《めしびつ》も引かれずにある。主人公は机の前へ座を移
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