して、口から吹く濃き煙を眺めながら考えている。今日は藤尾《ふじお》と大森へ行く約束がある。約束だから行かなければならぬ。しかし是非行かねばならぬとなると、何となく気が咎《とが》める。不安である。約束さえしなければ、もう少しは太平であったろう。飯ももう一杯ぐらいは食えたかも知れぬ。賽《さい》は固《もと》より自分で投げた。一六《いちろく》の目は明かに出た。ルビコンは渡らねばならぬ。しかし事もなげに河を横切った該撒《シーザー》は英雄である。通例の人はいざと云う間際《まぎわ》になってからまた思い返す。小野さんは思い返すたびに、必ず廃《よ》せばよかったと後悔する。乗り掛けた船に片足を入れた時、船頭が出ますよと棹《さお》を取り直すと、待ってくれと云いたくなる。誰か陸《おか》から来て引っ張ってくれれば好いと思う。乗り掛けたばかりならまだ陸へ戻る機会があるからである。約束も履行《りこう》せんうちは岸を離れぬ舟と同じく、まだ絶体絶命と云う場合ではない。メレジスの小説にこんな話がある。――ある男とある女が諜《しめ》し合せて、停車場《ステーション》で落ち合う手筈《てはず》をする。手筈が順に行って、汽笛《きてき》がひゅうと鳴れば二人の名誉はそれぎりになる。二人の運命がいざと云う間際まで逼《せま》った時女はついに停車場へ来なかった。男は待ち耄《ぼけ》の顔を箱馬車の中に入れて、空しく家《うち》へ帰って来た。あとで聞くと朋友《ほうゆう》の誰彼が、女を抑留して、わざと約束の期を誤まらしたのだと云う。――藤尾と約束をした小野さんは、こんな風に約束を破る事が出来たら、かえって仕合《しあわせ》かも知れぬと思いつつ煙草の煙を眺めている。それに浅井の返事がまだ来ない。諾《だく》と云えばどっちへ転んでも幸《さいわい》である。否《ひ》と聞くならば、退《の》っ引《ぴ》きならぬ瀬戸際《せとぎわ》まであらかじめ押して置いて、振り返ってから、臨機応変に難関を切り抜けて行くつもりの計画だから、一刻も早く大森へ行ってしまえば済む。否《ひ》と云う返事を待つ必要は無論ない。ないが、決行する間際になると気掛りになる。頭で拵《こしら》え上げた計画を人情が崩《くず》しにかか驕B想像力が実行させぬように引き戻す。小野さんは詩人だけにもっとも想像力に富んでいる。
 想像力に富んでおればこそ、自分で断わりに行く気になれなかった。先生の顔と小夜子の顔と、部屋の模様と、暮しの有様とを眼《ま》のあたりに見て、眼のあたりに見たものを未来に延長《ひきのば》して想像の鏡に思い浮べて眺《なが》めると二《ふ》た通《とおり》になる。自分がこの鏡のなかに織り込まれているときは、春である、豊である、ことごとく幸福である。鏡の面《おもて》から自分の影を拭き消すと闇《やみ》になる、暮になる。すべてが悲惨《みじめ》になる。この一団の精神から、自分の魂だけを切り離す談判をするのは、小《ち》さき竈《かまど》に立つべき煙を予想しながら薪《たきぎ》を奪うと一般である。忍びない。人は眼を閉《つぶ》って苦《にが》い物を呑《の》む。こんな絡《から》んだ縁をふつりと切るのに想像の眼を開《あ》いていては出来ぬ。そこで小野さんは眼の閉《つぶ》れた浅井君を頼んだ。頼んだ後《あと》は、想像を殺してしまえば済む。と覚束《おぼつか》ないが決心だけはした。しかし犬一匹でも殺すのは容易な事ではない。持って生れた心の作用を、不都合なところだけ黒く塗って、消し切りに消すのは、古来から幾千万人の試みた窮策で、幾千万人が等しく失敗した陋策《ろうさく》である。人間の心は原稿紙とは違う。小野さんがこの決心をしたその晩から想像力は復活した。――
 瘠《や》せた頬を描《えが》く。落ち込んだ眼を描く。縺《もつ》れた髪を描く。虫のような気息《いき》を描く。――そうして想像は一転する。
 血を描く。物凄《ものすご》き夜と風と雨とを描く。寒き灯火《ともしび》を描く。白張《しらはり》の提灯《ちょうちん》を描く。――ぞっとして想像はとまる。
 想像のとまった時、急に約束を思い出す。約束の履行から出る快《こころよ》からぬ結果を思い出す。結果はまたも想像の力で曲々《きょくきょく》の波瀾を起す。――良心を質に取られる。生涯受け出す事が出来ぬ。利に利がつもる。背中が重くなる、痛くなる、そうして腰が曲る。寝覚《ねざめ》がわるい。社会が後指《うしろゆび》を指《さ》す。
 惘然《もうぜん》として煙草の煙を眺めている。恩賜の時計は一秒ごとに約束の履行を促《うな》がす。橇《そり》の上に力なき身を託したようなものである。手を拱《こま》ぬいていれば自然と約束の淵《ふち》へ滑《すべ》り込む。「時」の橇《そり》ほど正確に滑るものはない。
「やっぱり行く事にするか。後暗《うしろぐら》い行《おこない》さえなければ行
前へ 次へ
全122ページ中110ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング