》には神経が赤裸《あかはだか》になって、空気に触れても飛び上がるかも知れない。――昨夜《ゆうべ》小夜子は眼を合せなかった。
「羽織でも召していらしったら好いでしょう」
孤堂先生は返事をせずに、
「験温器があるかい。一つ計ってみよう」と云う。小夜子は茶の間へ立つ。
「どうかなすったんですか」と浅井君が無雑作《むぞうさ》に尋ねた。
「いえ、ちっと風邪《かぜ》を引いてね」
「はあ、そうですか。――もう若葉がだいぶ出ましたな」と云った。先生の病気に対してはまるで同情も頓着《とんじゃく》もなかった。病気の源因と、経過と、容体を精《くわ》しく聞いて貰おうと思っていた先生は当《あて》が外《はず》れた。
「おい、無いかね。どうした」と次の間を向いて、常よりは大きな声を出す。ついでに咳が二つ出た。
「はい、ただ今」と小《ち》さい声が答えた。が験温器を持って出る様子がない。先生は浅井君の方を向いて
「はあ、そうかい」と気のない返事をした。
浅井君はつまらなくなる。早く用を片づけて帰ろうと思う。
「先生小野はいっこう駄目ですな、ハイカラにばかりなって。御嬢さんと結婚する気はないですよ」とぱたぱたと順序なく並べた。
孤堂先生の窪《くぼ》んだ眼《まなこ》は一度に鋭どくなった。やがて鋭どいものが一面に広がって顔中|苦々《にがにが》しくなる。
「廃《よ》した方が好《え》えですな」
置き失《な》くした験温器を捜《さ》がしていた、次の間の小夜子は、長火鉢の二番目の抽出《ひきだし》を二寸ほど抜いたまま、はたりと引く手を留めた。
先生の苦々《にがにが》しい顔は一層こまやかになる。想像力のない浅井君はとんと結果を予想し得ない。
「小野は近頃非常なハイカラになりました。あんな所へ行くのは御嬢さんの損です」
苦々しい顔はとうとう持ち切れなくなった。
「君は小野の悪口を云いに来たのかね」
「ハハハハ先生本当ですよ」
浅井君は妙なところで高笑をいた。
「余計な御世話だ。軽薄な」と鋭どく跳《は》ねつけた。先生の声はようやく尋常を離れる。浅井君は始めて驚ろいた。しばらく黙っている。
「おい験温器はまだか。何をぐずぐずしている」
次の間の返事は聞えなかった。ことりとも云わぬうちに、片寄せた障子《しょうじ》に影がさす。腰板の外《はずれ》から細い白木の筒《つつ》がそっと出る。畳の上で受取った先生はぽんと云わして筒を抜いた。取り出した験温器を日に翳《かざ》して二三度やけに振りながら、
「何だって、そんな余計な事を云うんだ」と度盛《どもり》を透《すか》して見る。先生の精神は半ば験温器にある。浅井君はこの間に元気を回復した。
「実は頼まれたんです」
「頼まれた? 誰に」
「小野に頼まれたんです」
「小野に頼まれた?」
先生は腋《わき》の下へ験温器を持って行く事を忘れた。茫然《ぼうぜん》としている。
「ああ云う男だものだから、自分で先生の所へ来て断わり切れないんです。それで僕に頼んだです」
「ふうん。もっと精《くわ》しく話すがいい」
「二三日|中《じゅう》に是非こちらへ御返事をしなければならないからと云いますから、僕が代理にやって来たんです」
「だから、どう云う理由で断わるんだか、それを精しく話したら好いじゃないか」
襖《ふすま》の蔭で小夜子が洟《はな》をかんだ。つつましき音ではあるが、一重《ひとえ》隔ててすぐ向《むこう》にいる人のそれと受け取れる。鴨居《かもい》に近く聞えたのは、襖越《ふすまごし》に立っているらしい。浅井君の耳にはどんな感じを与えたか知らぬ。
「理由はですな。博士にならなければならないから、どうも結婚なんぞしておられないと云うんです」
「じゃ博士の称号の方が、小夜より大事だと云うんだね」
「そう云う訳でもないでしょうが、博士になって置かんと将来非常な不利益ですからな」
「よし分った。理由はそれぎりかい」
「それに確然たる契約のない事だからと云うんです」
「契約とは法律上有効の契約という意味だな。証文のやりとりの事だね」
「証文でもないですが――その代り長い間御世話になったから、その御礼としては物質的の補助をしたいと云うんです」
「月々金でもくれると云うのかい」
「そうです」
「おい小夜や、ちょっと御出《おいで》。小夜や――小夜や」と声はしだいに高くなる。返事はついにない。
小夜子は襖《ふすま》の蔭に蹲踞《うずくま》ったまま、動かずにいる。先生は仕方なしに浅井君の方へ向き直った。
「君は妻君があるかい」
「ないです。貰いたいが、自分の口が大事ですからな」
「妻君がなければ参考のために聞いて置くがいい。――人の娘は玩具《おもちゃ》じゃないぜ。博士の称号と小夜と引き替にされてたまるものか。考えて見るがいい。いかな貧乏人の娘でも活物《いきもの》だよ。私《わし》
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