しているから。――及第の件とそれからこの頭の説明を」
「頭は好いが――全体どこへ行く事になったのかい。英吉利《イギリス》か、仏蘭西《フランス》か」
「その辺はまだ分らないです。何でも西洋は西洋でしょう」
「ハハハハ気楽なもんだ。まあどこへでも行くが好い」
「西洋なんか行きたくもないんだけれども――まあ順序だから仕方がない」
「うん、まあ勝手な所へ行くがいい」
「支那や朝鮮なら、故《もと》の通《とおり》の五分刈で、このだぶだぶの洋服を着て出掛けるですがね」
「西洋はやかましい。御前のような不作法《ぶさほう》ものには好い修業になって結構だ」
「ハハハハ西洋へ行くと堕落するだろうと思ってね」
「なぜ」
「西洋へ行くと人間を二《ふ》た通《とお》り拵《こしら》えて持っていないと不都合ですからね」
「二た通とは」
「不作法《ぶさほう》な裏と、奇麗な表と。厄介《やっかい》でさあ」
「日本でもそうじゃないか。文明の圧迫が烈《はげ》しいから上部《うわべ》を奇麗にしないと社会に住めなくなる」
「その代り生存競争も烈しくなるから、内部はますます不作法になりまさあ」
「ちょうどなんだな。裏と表と反対の方角に発達する訳になるな。これからの人間は生きながら八《や》つ裂《ざき》の刑を受けるようなものだ。苦しいだろう」
「今に人間が進化すると、神様の顔へ豚の睾丸《きんたま》をつけたような奴《やつ》ばかり出来て、それで落つきが取れるかも知れない。いやだな、そんな修業に出掛けるのは」
「いっそ廃《やめ》にするか。うちにいて親父《おやじ》の古洋服でも着て太平楽を並べている方が好いかも知れない。ハハハハ」
「ことに英吉利《イギリス》人は気に喰わない。一から十まで英国が模範であると云わんばかりの顔をして、何でもかでも我流《がりゅう》で押し通そうとするんですからね」
「だが英国紳士と云って近頃だいぶ評判がいいじゃないか」
「日英同盟だって、何もあんなに賞《ほ》めるにも当らない訳だ。弥次馬共が英国へ行った事もない癖に、旗ばかり押し立てて、まるで日本が無くなったようじゃありませんか」
「うん。どこの国でも表が表だけに発達すると、裏も裏相応に発達するだろうからな。――なに国ばかりじゃない個人でもそうだ」
「日本がえらくなって、英国の方で日本の真似でもするようでなくっちゃ駄目だ」
「御前が日本をえらくするさ。ハハハハ」
宗近君は日本をえらくするとも、しないとも云わなかった。ふと手を伸《のば》すと更紗《さらさ》の結襟《ネクタイ》が白襟《カラ》の真中《まんなか》まで浮き出して結目《むすびめ》は横に捩《ねじ》れている。
「どうも、この襟飾《えりかざり》は滑《すべ》っていけない」と手探《てさぐり》に位地を正しながら、
「じゃ糸にちょっと話しましょう」と立ちかける。
「まあ御待ち、少し相談がある」
「何ですか」と立ち掛けた尻を卸《おろ》す機会《しお》に、準胡坐《じゅんあぐら》の姿勢を取る。
「実は今までは、御前の位地もまだきまっていなかったから、さほどにも云わなかったが……」
「嫁ですかね」
「そうさ。どうせ外国へ行くなら、行く前にきめるとか、結婚するとか、または連れて行くとか……」
「とても連れちゃ行かれませんよ。金が足りないから」
「連れて行かんでも好い。ちゃんと片をつけて、そうして置いて行くなら。留守中は私《わし》が大事に預かってやる」
「私《わたし》もそうしようと思ってるんです」
「どうだなそこで。気に入った婦人でもあるかな」
「甲野の妹を貰うつもりなんですがね。どうでしょう」
「藤尾《ふじお》かい。うん」
「駄目ですかね」
「なに駄目じゃない」
「外交官の女房にゃ、ああ云うんでないといけないです」
「そこでだて。実は甲野の親父《おやじ》が生きているうち、私と親父の間に、少しはその話もあったんだがな。御前は知らんかも知らんが」
「叔父さんは時計をやると云いました」
「あの金時計かい。藤尾が玩弄《おもちゃ》にするんで有名な」
「ええ、あの太古の時計です」
「ハハハハあれで針が回るかな。時計はそれとして、実は肝心《かんじん》の本人の事だが――この間甲野の母《おっか》さんが来た時、ついでだから話して見たんだがね」
「はあ、何とか云いましたか」
「まことに好い御縁だが、まだ御身分がきまって御出《おいで》でないから残念だけれども……」
「身分がきまらないと云うのは外交官の試験に及第しないと云う意味ですかね」
「まあ、そうだろう」
「だろうはちっと驚ろいたな」
「いや、あの女の云う事は、非常に能弁な代りによく意味が通じないで困る。滔々《とうとう》と述べる事は述べるが、ついに要点が分らない。要するに不経済な女だ」
多少|苦々《にがにが》しい気色《けしき》に、煙管《きせる》でとんと膝頭《ひざ
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