華厳経《けごんきょう》に外面《げめん》如菩薩《にょぼさつ》、内心《ないしん》如夜叉《にょやしゃ》と云う句がある。知ってるだろう」
「文句だけは知ってます」
「それで仏見笑と云うんだそうだ。花は奇麗だが、大変|刺《とげ》がある。触《さわ》って御覧」
「なに触らなくっても結構です」
「ハハハハ外面如菩薩、内心如夜叉。女は危ないものだ」と云いながら、老人は雁首《がんくび》の先で祥瑞《しょんずい》の中を穿《ほじく》り廻す。
「むずかしい薔薇があるもんだな」と宗近君は感心して仏見笑を眺《なが》めている。
「うん」と老人は思い出したように膝を打つ。
「一《はじめ》あの花を見た事があるかい。あの床《とこ》に挿《さ》してある」
老人はいながら、顔の向を後《うしろ》へ変える。捩《ねじ》れた頸《くび》に、行き所を失った肉が、三筋ほど括《くび》られて肩の方へ競《せ》り出して来る。
茶がかった平床《ひらどこ》には、釣竿を担《かつ》いだ蜆子和尚《けんすおしょう》を一筆《ひとふで》に描《か》いた軸《じく》を閑静に掛けて、前に青銅の古瓶《こへい》を据《す》える。鶴ほどに長い頸の中から、すいと出る二茎《ふたくき》に、十字と四方に囲う葉を境に、数珠《じゅず》に貫《ぬ》く露の珠《たま》が二穂《ふたほ》ずつ偶《ぐう》を作って咲いている。
「大変細い花ですね。――見た事がない。何と云うんですか」
「これが例の二人静《ふたりしずか》だ」
「例の二人静? 例にも何にも今まで聞いた事がないですね」
「覚えて置くがいい。面白い花だ。白い穂がきっと二本ずつ出る。だから二人静。謡曲に静の霊が二人して舞うと云う事がある。知っているかね」
「知りませんね」
「二人静。ハハハハ面白い花だ」
「何だか因果《いんが》のある花ばかりですね」
「調べさえすれば因果はいくらでもある。御前、梅に幾通《いくとおり》あるか知ってるか」と煙草盆を釣るして、また煙管《きせる》の雁首で灰の中を掻《か》き廻す。宗近君はこの機に乗じて話頭を転換した。
「阿爺《おとっ》さん。今日ね、久しぶりに髪結床《かみゆいどこ》へ行って、頭を刈って来ました」と右の手で黒いところを撫《な》で廻す。
「頭を」と云いながら羅宇《らお》の中ほどを祥瑞《しょんずい》の縁《ふち》でとんと叩《たた》いて灰を落す。
「あんまり奇麗《きれい》にもならんじゃないか」と真向《まむき》に帰ってから云う。
「奇麗にもならんじゃないかって、阿爺《おとっ》さん、こりゃ五分刈《ごぶがり》じゃないですぜ」
「じゃ何刈だい」
「分けるんです」
「分かっていないじゃないか」
「今に分かるようになるんです。真中が少し長いでしょう」
「そう云えば心持長いかな。廃《よ》せばいいのに、見っともない」
「見っともないですか」
「それにこれから夏向は熱苦しくって……」
「ところがいくら熱苦しくっても、こうして置かないと不都合なんです」
「なぜ」
「なぜでも不都合なんです」
「妙な奴だな」
「ハハハハ実はね、阿爺さん」
「うん」
「外交官の試験に及第してね」
「及第したか。そりゃそりゃ。そうか。そんなら早くそう云えば好いのに」
「まあ頭でも拵《こしら》えてからにしようと思って」
「頭なんぞはどうでも好いさ」
「ところが五分刈で外国へ行くと懲役人と間違えられるって云いますからね」
「外国へ――外国へ行くのかい。いつ」
「まあこの髪が延びて小野清三式になる時分でしょう」
「じゃ、まだ一ヵ月くらいはあるな」
「ええ、そのくらいはあります」
「一ヵ月あるならまあ安心だ。立つ前にゆっくり相談も出来るから」
「ええ時間はいくらでもあります。時間の方はいくらでもありますが、この洋服は今日限《こんにちかぎり》御返納に及びたいです」
「ハハハハいかんかい。よく似合うぜ」
「あなたが似合う似合うとおっしゃるから今日まで着たようなものの――至るところだぶだぶしていますぜ」
「そうかそれじゃ廃《よ》すがいい。また阿爺さんが着よう」
「ハハハハ驚いたなあ。それこそ御廃《およ》しなさい」
「廃しても好い。黒田にでもやるかな」
「黒田こそいい迷惑だ」
「そんなにおかしいかな」
「おかしかないが、身体《からだ》に合わないでさあ」
「そうか、それじゃやっぱりおかしいだろう」
「ええ、つまるところおかしいです」
「ハハハハ時に糸にも話したかい」
「試験の事ですか」
「ああ」
「まだ話さないです」
「まだ話さない。なぜ。――全体いつ分ったんだ」
「通知のあったのは二三日前ですがね。つい、忙しいもんだから、まだ誰にも話さない」
「御前は呑気《のんき》過ぎていかんよ」
「なに忘れやしません。大丈夫」
「ハハハハ忘れちゃ大変だ。まあもう、ちっと気をつけるがいい」
「ええこれから糸公に話してやろうと思ってね。――心配
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