か》さんの世話は御前がしなければいけない」
「ありがとう」と云いながら、また母の方を見る。やはり笑っている。
「御前宗近へ行く気はないか」
「ええ」
「ない? どうしても厭《いや》か」
「厭です」
「そうか。――そんなに小野が好いのか」
藤尾は屹《きっ》となる。
「それを聞いて何になさる」と椅子《いす》の上に背を伸《の》して云う。
「何にもしない。私のためには何にもならない事だ。ただ御前のために云ってやるのだ」
「私のために?」と言葉の尻を上げて置いて、
「そう」とさも軽蔑《けいべつ》したように落す。母は始めて口を出す。
「兄さんの考では、小野さんより一《はじめ》の方がよかろうと云う話なんだがね」
「兄さんは兄さん。私は私です」
「兄さんは小野さんよりも一の方が、母さんを大事にしてくれると御言いのだよ」
「兄さん」と藤尾は鋭く欽吾に向った。「あなた小野さんの性格を知っていらっしゃるか」
「知っている」と閑静《しずか》に云う。
「知ってるもんですか」と立ち上がる。「小野さんは詩人です。高尚な詩人です」
「そうか」
「趣味を解した人です。愛を解した人です。温厚の君子です。――哲学者には分らない人格です。あなたには一さんは分るでしょう。しかし小野さんの価値《ねうち》は分りません。けっして分りません。一さんを賞《ほ》める人に小野さんの価値が分る訳がありません。……」
「じゃ小野にするさ」
「無論します」
云い棄《す》てて紫の絹《リボン》は戸口の方へ揺《うご》いた。繊《ほそ》い手に円鈕《ノッブ》をぐるりと回すや否《いな》や藤尾の姿は深い背景のうちに隠れた。
十六
叙述の筆は甲野《こうの》の書斎を去って、宗近《むねちか》の家庭に入る。同日である。また同刻である。
相変らずの唐机《とうづくえ》を控えて、宗近の父《おとっ》さんが鬼更紗《おにざらさ》の座蒲団《ざぶとん》の上に坐っている。襯衣《シャツ》を嫌った、黒八丈《くろはちじょう》の襦袢《じゅばん》の襟《えり》が崩《くず》れて、素肌に、もじゃ、もじゃと胸毛が見える。忌部焼《いんべやき》の布袋《ほてい》の置物にこんなのがよくある。布袋の前に異様の煙草盆《たばこぼん》を置く。呉祥瑞《ごしょんずい》の銘のある染付《そめつけ》には山がある、柳がある、人物がいる。人物と山と同じくらいな大きさに描《えが》かれている間を、一筋の金泥《きんでい》が蜿蜒《えんえん》と縁《ふち》まで這上《はいあが》る。形は甕《かめ》のごとく、鉢《はち》が開いて、開いた頂《いただき》が、がっくりと縮まると、丸い縁《ふち》になる。向い合せの耳を潜《くぐ》る蔓《つる》には、ぎりぎりと渋《しぶ》を帯びた籐《と》を巻きつけて手提《てさげ》の便を計る。
宗近の父《おとっ》さんは昨日《きのう》どこの古道具屋からか、継《つぎ》のあるこの煙草盆を堀り出して来て、今朝から祥瑞だ、祥瑞だと騒いだ結果、灰を入れ、火を入れ、しきりに煙草を吸っている。
ところへ入口の唐紙《からかみ》をさらりと開けて、宗近君が例のごとく活溌《かっぱつ》に這入《はい》って来る。父は煙草盆から眼を離した。見ると忰《せがれ》は親譲りの背広をだぶだぶに着て、カシミヤの靴足袋《くつたび》だけに、大なる通《つう》をきめている。
「どこぞへ行くかね」
「行くんじゃない、今帰ったところです。――ああ暑い。今日はよっぽど暑いですね」
「家《うち》にいると、そうでもない。御前はむやみに急ぐから暑いんだ。もう少し落ちついて歩いたらどうだ」
「充分落ちついているつもりなんだが、そう見えないかな。弱るな。――やあ、とうとう煙草盆へ火を入れましたね。なるほど」
「どうだ祥瑞は」
「何だか酒甕《さかがめ》のようですね」
「なに煙草盆さ。御前達が何だかだって笑うが、こうやって灰を入れて見るとやっぱり煙草盆らしいだろう」
老人は蔓《つる》を持って、ぐっと祥瑞を宙に釣るし上げた。
「どうだ」
「ええ。好いですね」
「好いだろう。祥瑞は贋《にせ》の多いもんで容易には買えない」
「全体いくらなんですか」
「いくらだか当てて御覧」
「見当が着きませんね。滅多《めった》な事を云うとまたこの間の松見たように頭ごなしに叱られるからな」
「壱円八十銭だ。安いもんだろう」
「安いですかね」
「全く堀出《ほりだし》だ」
「へええ――おや椽側にもまた新らしい植木が出来ましたね」
「さっき万両《まんりょう》と植え替えた。それは薩摩《さつま》の鉢《はち》で古いものだ」
「十六世紀頃の葡萄耳《ポルトガル》人が被った帽子のような恰好《かっこう》ですね。――この薔薇《ばら》はまた大変赤いもんだな、こりゃあ」
「それは仏見笑《ぶっけんしょう》と云ってね。やっぱり薔薇の一種だ」
「仏見笑? 妙な名だな」
「
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