がまだ済まないんだから勉強中に嫁でもあるまいし」
「そりゃ、構わないです」
「それに一は長男だから、どうしても宗近の家を襲《つ》がなくっちゃならずね」
「藤尾へは養子をするつもりなんですか」
「したくはないが、御前が母《おっ》かさんの云う事を聞いておくれでないから……」
「藤尾がわきへ行くにしても、財産は藤尾にやります」
「財産は――御前私の料簡《りょうけん》を間違えて取っておくれだと困るが――母《おっか》さんの腹の中には財産の事なんかまるでありゃしないよ。そりゃ割って見せたいくらいに奇麗《きれい》なつもりだがね。そうは見えないか知ら」
「見えます」と甲野さんが云った。極《きわ》めて真面目《まじめ》な調子である。母にさえ嘲弄《ちょうろう》の意味には受取れなかった。
「ただ年を取って心細いから……たった一人の藤尾をやってしまうと、後《あと》が困るんでね」
「なるほど」
「でなければ一が好いんだがね。御前とも仲が善し……」
「母かさん、小野をよく知っていますか」
「知ってるつもりです。叮嚀《ていねい》で、親切で、学問がよく出来て立派な人じゃないか。――なぜ」
「そんなら好いです」
「そう素気《そっけ》なく云わずと、何か考《かんがえ》があるなら聞かしておくれな。せっかく相談に来たんだから」
しばらく罫紙《けいし》の上の楽書《らくがき》を見詰めていた甲野さんは眼を上げると共に穏かに云い切った。
「宗近の方が小野より母《おっか》さんを大事にします」
「そりゃ」とたちまち出る。後《あと》から静かに云う。
「そうかも知れない――御前の見た眼に間違はあるまいが、ほかの事と違って、こればかりは親や兄の自由には行《い》かないもんだからね」
「藤尾が是非にと云うんですか」
「え、まあ――是非とも云うまいが」
「そりゃ私《わたし》も知っている。知ってるんだが。――藤尾はいますか」
「呼びましょう」
母は立った。薄紅色《ときいろ》に深く唐草《からくさ》を散らした壁紙に、立ちながら、手頃に届く電鈴《ベル》を、白きただ中に押すと、座に返るほどなきに応《こたえ》がある。入口の戸が五寸ばかりそっと明《あ》く、ところを振り返った母が
「藤尾に用があるからちょいと」と云う。そっと明いた戸はそっと締る。
母と子は洋卓《テエブル》を隔てて差し向う。互に無言である。欽吾はまた鉛筆を取り上げた。三《み》つ鱗《うろこ》の周囲《まわり》に擦《す》れ擦れの大きさに円《まる》を描《か》く。円と鱗の間を塗る。黒い線を一本一本|叮嚀《ていねい》に並行させて行く。母は所在なさに、忰《せがれ》の図案を慇懃《いんぎん》に眺《なが》めている。
二人の心は無論わからぬ。ただ上部《うわべ》だけはいかにも静である。もし手足《しゅそく》の挙止が、内面の消息を形而下《けいじか》に運び来《きた》る記号となり得るならば、この二人ほどに長閑《のどか》な母子《おやこ》は容易に見出し得まい。退屈の刻を、数十《すじゅう》の線に劃《かく》して、行儀よく三つ鱗の外部《そとがわ》を塗り潰す子と、尋常に手を膝の上に重ねて、一劃ごとに黒くなる円《まる》の中を、端然《たんねん》と打ち守る母とは、咸雍《かんよう》の母子である。和怡《わい》の母子である。挟《さしは》さむ洋卓に、遮《さえぎ》らるる胸と胸を対《むか》い合せて、春|鎖《とざ》す窓掛のうちに、世を、人を、争を、忘れたる姿である。亡《な》き人の肖像は例に因《よ》って、壁の上から、閑静なるこの母子を照らしている。
丹念に引く線はようやく繁《しげ》くなる。黒い部分はしだいに増す。残るはただ右手に当る弓形《ゆみなり》の一ヵ所となった時、がちゃりと釘舌《ボールト》を捩《ねじ》る音がして、待ち設けた藤尾の姿が入口に現われた。白い姿を春に託す。深い背景のうちに肩から上が浮いて見える。甲野さんの鉛筆は引きかけた線の半《なか》ばでぴたりと留った。同時に藤尾の顔は背景を抜け出して来る。
「炙《あぶ》り出しはどうして」と言いながら、母の隣まで来て、横合から腰を卸《おろ》す。卸し終った時、また、
「出て?」と母に聞く。母はただ藤尾の方を意味ありげに見たのみである。甲野さんの黒い線はこの間に四本増した。
「兄さんが御前に何か御用があると御云いだから」
「そう」と云ったなり、藤尾は兄の方へ向き直った。黒い線がしきりに出来つつある。
「兄さん、何か御用」
「うん」と云った甲野さんは、ようやく顔を上げた。顔を上げたなり何とも云わない。
藤尾は再び母の方を見た。見ると共に薄笑《うすわらい》の影が奇麗《きれい》な頬にさす。兄はやっと口を切る。
「藤尾、この家《うち》と、私《わたし》が父《おとっ》さんから受け襲《つ》いだ財産はみんな御前にやるよ」
「いつ」
「今日からやる。――その代り、母《おっ
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