が書いてある。読み掛けて気がついた。昨日《きのう》読んだ書物の中から備忘のため抄録して、そのままに捨てて置いた紙片《かみきれ》である。甲野さんは罫紙を洋卓の上に伏せた。
母は額の裏側だけに八の字を寄せて、甲野さんの返事をおとなしく待っている。甲野さんは鉛筆を執《と》って紙の上へ烏と云う字を書いた。
「どうだろうね」
烏と云う字が鳥になった。
「そうしてくれると好いがね」
鳥と云う字が鴃《げき》の字になった。その下に舌の字が付いた。そうして顔を上げた。云う。
「まあ藤尾の方からきめたら好いでしょう」
「御前が、どうしても承知してくれなければ、そうするよりほかに道はあるまい」
云い終った母は悄然《しょうぜん》として下を向いた。同時に忰《せがれ》の紙の上に三角が出来た。三角が三つ重なって鱗《うろこ》の紋になる。
「母《おっ》かさん。家《うち》は藤尾にやりますよ」
「それじゃ御前……」と打《う》ち消《けし》にかかる。
「財産も藤尾にやります。私《わたし》は何にもいらない」
「それじゃ私達が困るばかりだあね」
「困りますか」と落ちついて云った。母子《おやこ》はちょっと眼を見合せる。
「困りますかって。――私が、死んだ阿父《おとっ》さんに済まないじゃないか」
「そうですか。じゃどうすれば好いんです」と飴色《あめいろ》に塗った鉛筆を洋卓の上にはたりと放《ほう》り出した。
「どうすれば好いか、どうせ母《おっか》さんのような無学なものには分らないが、無学は無学なりにそれじゃ済まないと思いますよ」
「厭《いや》なんですか」
「厭だなんて、そんなもったいない事を今まで云った事があったかね」
「有りません」
「私《わたし》も無いつもりだ。御前がそう云ってくれるたんびに、御礼は始終《しょっちゅう》云ってるじゃないか」
「御礼は始終聞いています」
母は転がった鉛筆を取り上げて、尖《とが》った先を見た。丸い護謨《ゴム》の尻を見た。心のうちで手のつけようのない人だと思った。ややあって護謨の尻をきゅうっと洋卓《テエブル》の上へ引っ張りながら云う。
「じゃ、どうあっても家《うち》を襲《つ》ぐ気はないんだね」
「家は襲いでいます。法律上私は相続人です」
「甲野の家は襲いでも、母《おっ》かさんの世話はしてくれないんだね」
甲野さんは返事をする前に、眸《ひとみ》を長い眼の真中に据えてつくづくと母の顔を眺めた。やがて、
「だから、家も財産もみんな藤尾にやると云うんです」と慇懃《いんぎん》に云う。
「それほどに御云いなら、仕方がない」
母は溜息と共に、この一句を洋卓の上にうちやった。甲野さんは超然としている。
「じゃ仕方がないから、御前の事は御前の思い通りにするとして、――藤尾の方だがね」
「ええ」
「実はあの小野さんが好かろうと思うんだが、どうだろう」
「小野をですか」と云ったぎり、黙った。
「いけまいか」
「いけない事もないでしょう」と緩《ゆっ》くり云う。
「よければ、そうきめようと思うが……」
「好いでしょう」
「好いかい」
「ええ」
「それでようやく安心した」
甲野さんはじっと眼を凝《こ》らして正面に何物をか見詰めている。あたかも前にある母の存在を認めざるごとくである。
「それでようやく――御前どうかおしかい」
「母《おっ》かさん、藤尾は承知なんでしょうね」
「無論知っているよ。なぜ」
甲野さんは、やはり遠方を見ている。やがて瞬《またたき》を一つすると共に、眼は急に近くなった。
「宗近はいけないんですか」と聞く。
「一《はじめ》かい。本来なら一が一番好いんだけれども。――父《おとっ》さんと宗近とは、ああ云う間柄ではあるしね」
「約束でもありゃしなかったですか」
「約束と云うほどの事はなかったよ」
「何だか父《おとっ》さんが時計をやるとか云った事があるように覚えていますが」
「時計?」と母は首を傾《かた》げた。
「父さんの金時計です。柘榴石《ガーネット》の着いている」
「ああ、そうそう。そんな事が有ったようだね」と母は思い出したごとくに云う。
「一《はじめ》はまだ当《あて》にしているようです」
「そうかい」と云ったぎり母は澄ましている。
「約束があるならやらなくっちゃ悪い。義理が欠ける」
「時計は今藤尾が預《あずか》っているから、私《わたし》から、よく、そう云って置こう」
「時計もだが、藤尾の事を重《おも》に云ってるんです」
「だって藤尾をやろうと云う約束はまるで無いんだよ」
「そうですか。――それじゃ、好いでしょう」
「そう云うと私が何だか御前の気に逆《さから》うようで悪いけれども、――そんな約束はまるで覚《おぼえ》がないんだもの」
「はああ。じゃ無いんでしょう」
「そりゃね。約束があっても無くっても、一ならやっても好いんだが、あれも外交官の試験
前へ
次へ
全122ページ中91ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング