奇麗《きれい》に芽《め》を吹きましたね」
「見事だね。かえって生《なま》じいな花よりも、好《よ》ござんすよ。ここからは、たった一本しっきゃ見えないね。向《むこう》へ廻ると刈り込んだのが丸《まある》く揃《そろ》って、そりゃ奇麗」
「あなたの部屋からが一番好く見えるようですね」
「ああ、御覧かい」
甲野さんは見たとも見ないとも云わなかった。母は云う。――
「それにね。近頃は陽気のせいか池の緋鯉《ひごい》が、まことによく跳《はね》るんで……ここから聞えますかい」
「鯉の跳る音がですか」
「ああ」
「いいえ」
「聞えない。聞えないだろうねこう立て切って有っちゃあ。母《おっか》さんの部屋からでも聞えないくらいだから。この間藤尾に母さんは耳が悪くなったって、さんざん笑われたのさ。――もっとも、もう耳も悪くなって好い年だから仕方がないけれども」
「藤尾はいますか」
「いるよ。もう小野さんが来て稽古《けいこ》をする時分だろう。――何か用でもあるかい」
「いえ、用は別にありません」
「あれも、あんな、気の勝った子で、さぞ御前さんの気に障《さわ》る事もあろうが、まあ我慢して、本当の妹だと思って、面倒を見てやって下さい」
甲野さんは腕組のまま、じっと、深い瞳《ひとみ》を母の上に据《す》えた。母の眼はなぜか洋卓《テエブル》の上に落ちている。
「世話はする気です」と徐《しず》かに云う。
「御前がそう云ってくれると私《わたし》もまことに安心です」
「する気どころじゃない。したいと思っているくらいです」
「それほどに思ってくれると聞いたら当人もさぞ喜ぶ事だろう」
「ですが……」で言葉は切れた。母は後《あと》を待つ。欽吾は腕組を解いて、椅子に倚《よ》る背を前に、胸を洋卓《テエブル》の角《かど》へ着けるほど母に近づいた。
「ですが、母《おっか》さん。藤尾の方では世話になる気がありません」
「そんな事が」と今度は母の方が身体《からだ》を椅子の背に引いた。甲野さんは一筋の眉さえ動かさない。同じような低い声を、静かに繋《つな》げて行く。
「世話をすると云うのは、世話になる方でこっちを信仰――信仰と云うのは神さまのようでおかしい」
甲野さんはここでぽつりと言葉を切った。母はまだ番が回って来ないと心得たか、尋常に控えている。
「とにかく世話になっても好いと思うくらいに信用する人物でなくっちゃ駄目です」
「そりゃ御前にそう見限られてしまえばそれまでだが」とここまでは何の苦もなく出したが、急に調子を逼《せま》らして、
「藤尾《あれ》も実は可哀想《かわいそう》だからね。そう云わずに、どうかしてやって下さい」と云う。甲野さんは肘《ひじ》を立てて、手の平で額《ひたい》を抑えた。
「だって見縊《みくび》られているんだから、世話を焼けば喧嘩《けんか》になるばかりです」
「藤尾が御前さんを見縊るなんて……」と打《う》ち消《けし》はしとやかな母にしては比較的に大きな声であった。
「そんな事があっては第一|私《わたし》が済まない」と次に添えた時はもう常に復していた。
甲野さんは黙って肘を立てている。
「何か藤尾が不都合な事でもしたかい」
甲野さんは依然として額に加えた手の下から母を眺《なが》めている。
「もし不都合があったら、私から篤《とく》と云って聞かせるから、遠慮しないで、何でも話しておくれ。御互のなかで気不味《きまず》い事があっちゃあ面白くないから」
額に加えた五本の指は、節長に細《ほっそ》りして、爪の形さえ女のように華奢《きゃしゃ》に出来ている。
「藤尾はたしか二十四になったんですね」
「明けて四《し》になったのさ」
「もうどうかしなくっちゃならないでしょう」
「嫁の口かい」と母は簡単に念を押した。甲野さんは嫁とも聟《むこ》とも判然した答をしない。母は云う。
「藤尾の事も、実は相談したいと思っているんだが、その前にね」
「何ですか」
右の眉《まゆ》はやはり手の下に隠れている。眼の光《いろ》は深い。けれども鋭い点はどこにも見えぬ。
「どうだろう。もう一遍考え直してくれると好いがね」
「何をですか」
「御前の事をさ。藤尾も藤尾でどうかしなければならないが、御前の方を先へきめないと、母《おっか》さんが困るからね」
甲野さんは手の甲の影で片頬《かたほ》に笑った。淋《さみ》しい笑である。
「身体《からだ》が悪いと御云いだけれども、御前くらいの身体で御嫁を取った人はいくらでもあります」
「そりゃ、有るでしょう」
「だからさ。御前も、もう一遍考え直して御覧な。中には御嫁を貰って大変丈夫になった人もあるくらいだよ」
甲野さんの手はこの時始めて額を離れた。洋卓《テエブル》の上には一枚の罫紙《けいし》に鉛筆が添えて載《の》せてある。何気なく罫紙を取り上げて裏を返して見ると三四行の英語
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