》男に及第が出来ますものかね。考えて御覧な。――もし及第なすったら藤尾を差上《さしあげ》ましょうと約束したって大丈夫だよ」
「そう云ったの」
「そうは云わないさ。そうは云わないが、云っても大丈夫、及第出来っ子ない男だあね」
藤尾は笑ながら、首を傾けた。やがてすっきと姿勢を正して、話を切り上げながら云う。
「じゃ宗近の御叔父《おじさん》はたしかに断わられたと思ってるんですね」
「思ってるはずだがね。――どうだい、あれから一の様子は、少しは変ったかい」
「やっぱり同《おんな》じですからさ。この間博覧会へ行ったときも相変らずですもの」
「博覧会へ行ったのは、いつだったかね」
「今日で」と考える。「一昨日《おととい》、一昨々日《さきおととい》の晩です」と云う。
「そんなら、もう一に通じている時分だが。――もっとも宗近の御叔父がああ云う人だから、ことに依ると謎《なぞ》が通じなかったかも知れないね」とさも歯痒《はがゆ》そうである。
「それとも一さんの事だから、御叔父から聞いても平気でいるのかも知れないわね」
「そうさ。どっちがどっちとも云えないね。じゃ、こうしよう。ともかくも欽吾に話してしまおう。――こっちで黙っていちゃ、いつまで立っても際限がない」
「今、書斎にいるでしょう」
母は立ち上がった。椽側《えんがわ》へ出た足を一歩《ひとあし》後《あと》へ返して、小声に
「御前、一に逢《あ》うだろう」と屈《こごみ》ながら云う。
「逢うかも知れません」
「逢ったら少し匂わして置く方が好いよ。小野さんと大森へ行くとか云っていたじゃないか。明日《あした》だったかね」
「ええ、明日の約束です」
「何なら二人で遊んで歩くところでも見せてやると好い」
「ホホホホ」
母は書斎に向う。
からりとした椽《えん》を通り越して、奇麗な木理《もくめ》を一面に研《と》ぎ出してある西洋間の戸を半分明けると、立て切った中は暗い。円鈕《ノッブ》を前に押しながら、開く戸に身を任せて、音なき両足を寄木《よせき》の床《ゆか》に落した時、釘舌《ボールト》のかちゃりと跳《は》ね返る音がする。窓掛に春を遮《さえ》ぎる書斎は、薄暗く二人を、人の世から仕切った。
「暗い事」と云いながら、母は真中の洋卓《テエブル》まで来て立ち留まる。椅子《いす》の背の上に首だけ見えた欽吾の後姿が、声のした方へ、じいっと廻り込むと、なぞえに引いた眉の切れが三が一ほどあらわれた。黒い片髭《かたひげ》が上唇を沿うて、自然《じねん》と下りて来て、尽んとする角《かど》から、急に捲《ま》き返す。口は結んでいる。同時に黒い眸《ひとみ》は眼尻まで擦《ず》って来た。母と子はこの姿勢のうちに互を認識した。
「陰気だねえ」と母は立ちながら繰り返す。
無言の人は立ち上る。上靴を二三度床に鳴らして、洋卓の角まで足を運ばした時、始めて
「窓を明けましょうか」と緩《ゆっくり》聞いた。
「どうでも――母《おっか》さんはどうでも構わないが、ただ御前が欝陶《うっとう》しいだろうと思ってさ」
無言の人は再び右の手の平を、洋卓越に前へ出した。促《うな》がされたる母はまず椅子に着く。欽吾も腰を卸《おろ》した。
「どうだね、具合は」
「ありがとう」
「ちっとは好い方かね」
「ええ――まあ――」と生返事《なまへんじ》をした時、甲野さんは背を引いて腕を組んだ。同時に洋卓の下で、右足の甲の上へ左の外踝《そとくろぶし》を乗せる。母の眼からは、ただ裄《ゆき》の縮んだ卵色の襯衣《シャツ》の袖が正面に見える。
「身体《からだ》を丈夫にしてくれないとね、母さんも心配だから……」
句の切れぬうちに、甲野さんは自分の顎《あご》を咽喉《のど》へ押しつけて、洋卓の下を覗き込んだ。黒い足袋が二つ重なっている。母の足は見えない。母は出直した。
「身体が悪いと、つい気分まで欝陶しくなって、自分も面白くないし……」
甲野さんはふと眼を上げた。母は急に言葉を移す。
「でも京都へ行ってから、少しは好いようだね」
「そうですか」
「ホホホホ、そうですかって、他人《ひと》の事のように。――何だか顔色が丈夫丈夫して来たじゃないか。日に焼けたせいかね」
「そうかも知れない」と甲野さんは、首を向け直して、窓の方を見る。窓掛の深い襞《ひだ》が左右に切れる間から、扇骨木《かなめ》の若葉が燃えるように硝子《ガラス》に映《うつ》る。
「ちっと、日本間の方へ話にでも来て御覧。あっちは、廓《から》っとして、書斎より心持が好いから。たまには、一《はじめ》のようにつまらない女を相手にして世間話をするのも気が変って面白いものだよ」
「ありがとう」
「どうせ相手になるほどの話は出来ないけれども――それでも馬鹿は馬鹿なりにね。……」
甲野さんは眩《まぶ》しそうな眼を扇骨木から放した。
「扇骨木が大変|
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